ルネ・ジラールと供儀とキリスト教

ジラールの人類学的考察は、現代の思考に逆流している。様々な普遍概念や否定神学を排除する思想的潮流の中、人類学をもとに文化一般に適応可能な概念と、キリストの十字架の普遍性を堂々と語る。勿論、街角の狂信的なツァラトゥストラの宣言とは似ても似つかぬものではあるが、ある種の思考的「後ずさり」をおぼえるのは私だけではないだろう。しかし、ジラールの考察はシンプルだが鋭く、様々の文化の神話を並列させておいて、そのなかから一般概念を浮かび上がらせる手法は一読に値する。


ジラールの論旨は至って単純である。不特定多数の人間が構成する共同体には、他者の模倣をベースにおいた欲望が発生する。ある人間に内在する欲望は、かならずしも主体的なものではなく、他者の欲するものを欲するという模倣的な構造によって生み出される。簡単な例としては、愛がさめきった中年夫婦の前に第三者である愛人が登場することによって、寝取られた本人のうちにパートナーへの欲望が再燃する現象にみられる。このように模倣(ミメーシス)をベースにおいた欲望は、やがて同一の対象を奪い合う暴力に発展する。暴力は復讐としての暴力を生むこととになり、ゆえに、模倣的欲望を介在した暴力の連鎖が人間社会に偏在するようになる。この暴力の連鎖は、人間社会を壊滅する破壊的可能性を持っている。共同体の破滅を回避するために、供儀が発明され、怒りを沈めるためにスケープゴートとしての生け贄が捧げられることになった。


以上がジラールが論じる、文化一般に適応可能な暴力と供儀の概念である。聖なるものとは、共同体のホメオスタシスを保ち続けるために必要な根源的な暴力、つまりもともとの供儀であり、これを記憶し、追憶して、表象的に繰り返していく行為を宗教とジラールは看做している。ここまでが、『欲望の現象学』や『暴力と聖なるもの』で明らかにされ、それ以降のジラールの著作のベースラインをなしている構造である。


この人類学・神話学的考察を一歩進めて、キリスト教との関係に言及しているところにジラールの面白さがある。イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(The Golden Bough)が20世紀初頭に提唱したキリスト教の福音(イエスの十字架での死)と古代神話の中に現れる生け贄の構造の類似性を継承しつつも、イエスの十字架が明らかにする、「反神話的」な「真理」をジラールは様々な角度から論じる。この「真理」とは、供儀としての生け贄に選ばれる犠牲者の無実性にある。たとえば、オイディプースの神話では、明らかにオイディプースの有罪とテーバイに平和をもたらすための供儀としての追放に因果関係を見出すことができる。しかし、聖書の「神話」には、生け贄となる主体の無実性が幾度となくうたわれていることから、「反神話的」ということばがつかわれているのだろう。


ジラールは、神話にみられるような暴力(供儀)によって暴力の永続的連鎖を断ち切る構造を、サタン的なものとして、『サタンが稲妻のように落ちるのが見える』では福音に対比させ、批判している。神話的な犠牲では覆い隠されていた、犠牲の無実性を明らかにするのが、キリスト教の「啓示」であり、キリスト教の普遍性だとジラールはいうのである。つまり、暴力の連鎖は暴力によって制止することはできず、ただ十字架上で自己を自ら犠牲にした献身的なキリストの愛を模倣することによってのみ可能である、と。人間の欲望は常に模倣の形態をとるので、近接的な他者の欲望を模倣し終わりなき闘争を続けるのか、キリストによって明らかにされた愛を自己の欲望として模倣していくのか、とジラールは選択を迫っているようでもある。


他にもジラールによるアリストテレスの悲劇論(カタルシス論)の読解や、ジラールの思想におけるニーチェの負債と超克、ジャンニ・ヴァッティモとの議論などまだまだ考えなくてはならない問題はあるが、それはまたの機会に語っていきたい。



欲望の現象学―ロマンティークの虚像とロマネスクの真実 (叢書・ウニベルシタス)

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欲望の現象学〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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サタンが稲妻のように落ちるのが見える

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Christianity, Truth, and Weakening Faith: A Dialogue

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