いけにえの羊 

ふと頭を上げると一頭の羊がいた。羊のわりにはからだが大きい。ゆっくりと全体を見回してみると、人間のような顔がその羊にはついていた。羊も気づいたようで、こちらを警戒しながらみている。おたがいに何も言わずに観察をしている。羊の顔はとてもうつくしく男性とも女性ともとれるような顔であった。目の辺りにはすこしばかりの涙のあとがみえる。

 

 「ここにいたか。」という声に気づくと、横には大きな男が重そうな斧をもって立っている。私は驚きもせずその男をみつめていると、大きな男はその斧をこちらに差し出す。

 

「はやくしたほうがいい。痛みは感じないように早くするんだ。」身体が大きいがとても優しそうな目をした男は、重そうな斧を私に持たせようとする。その男が言わんとすることは、説明されなくとも理解できた。

 

「ありがとう。」と私は大きな男にいうと、その差し出された斧を両手でうけとる。軽々と大きな男がもっていたその斧は、私にはずしりと重い。持てない訳ではない。でも力を振り絞らないと、うまく使うことはできないだろう。

 

もういちど羊の方をみると、その男性とも女性ともとれる美しい表情は、状況を受け入れたかのようにもみえた。羊はしばらく大きな男の方をみていたが、その美しくも悲しそうな目を私の方へ向けた。

 

「腰からはじめるといい。」優しい顔をしていた大きな男も、すこし悲しそうな目で羊をみながら、そう私に伝えた。羊に一歩近づくと、羊は後ずさりもせず、私を見つめ続けていた。

 

斧を大きく振りかぶると、私は力の限り羊の腰へ、その重い斧を打ち込む。ずしんという鈍い感触が手に残る。幼いときに父の手伝いで暖炉用の薪をきる時に、あやまって薪切り台に斧を打ち込んでしまったときのようだ。

 

生きている羊にしては、腰骨が固すぎる。皮膚は少しきれたようだが、羊の腰はびくともしない。羊は目をつぶり、ことがおわるのを待っているようだった。気を取り直して、なお私は斧を振りかぶる。またずしりとした感触が手に残る。その行為を、何度も何度も続けているうちに羊の胴体は二つにわかれた。

 

汗だくになりながら、一心に斧を振りかざしていた私のよこで、固い腰骨をもつ羊が痛みに耐えているのがうかがえた。「次は頭をやってあげるといい。早くやってあげないと痛みが大きすぎる。」と大きな男は目を伏せながら私にそう語る。なぜこのような行為をしているのか。必要なのはわかっている。だが、これほどの苦痛をこの羊に強いることが私には許されているのだろうか。

 

ここまできたら迷いはゆるされない。羊の痛みは増す一方だ。大きな男がいうように早く頭を砕かなければ、苦しみが無駄になってしまう。疲れ果てた身体をうながし、斧をつかみ羊の頭へ斧を打ち込む。羊の目は閉じたままである。この頭の骨も、腰骨と同じように固い。何度も何度も斧を振り込まなければならない。振り込むうちに悲しみで心が張り裂けそうになる。

 

ようやく羊の頭の骨がくだけると、その中から白く輝くものが流れ出ていった。十秒ほどそれは流れ出し、流れきると、羊は完全に死んだようだ。それからしばらく美しい羊をみていた。血はなく、ただ胴体が二つに分かれ、頭がくだけていた。私の張り裂けんばかりの悲しみは、涙として流れ出し、地面にぽたぽたと落ちていく。「ありがとう。」聞こえないほどの小さな声で、私は羊に思いを伝える。白く輝くものが流れ出てしまった美しい羊には、届かない言葉だろう。だがなんども伝えた。

 

ふと気づくと大きな男はいなくなっており、ぽつんと私はその羊と共にいた。くだけた頭のあたりをおさえて「ありがとう。」といっているうちに、 私は目が覚め、幻はそのまま融けていった。

 

 

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デューラー《子羊の前の選ばれしものたち》(1511年版、黙示録7章および14章より)