Einzelgängerとの対話―研究の歩みをめぐって

今回このようなかたちでコメントする機会をいただいたことを、日本基督教学会北海道支部の理事幹事の皆様、また、連絡役のみならず諸々の事務仕事、さらには司会まで務められている小柳さま、とりわけ講演者の安酸さまには、心より感謝を申し上げます。さきほど、ご紹介にあずかりました、立教大学の加藤喜之と申します。2013年に、米国プリンストン神学大学院より、17世紀の哲学者スピノザと改革派神学者たちの論争をとりあげた博士論文によって、博士号を授与されました。2013年から2019年までは、千葉県印西市にある東京基督教大学におりまして、最後の1年間はロッテルダム大学哲学部にも客員研究員として所属させていただきました。2019年4月から立教大学文学部キリスト教学科に所属しておりまして、初期近代の思想史と近現代のキリスト教史を担当しております。研究対象としては、17世紀後半のオランダにおける哲学と神学の関係を扱っております。最近の仕事としては、ドイツのVandenhoeck & Ruprecht社から、正統派神学者のペトルス・ファン・マストリヒトについての論集に寄稿したり、オランダ・ブリル社の雑誌に当時の哲学者たちと正統と異端の問題を扱った特集のゲストエディターをつとめたり、当時の代表的なデカルト派神学者クリストフ・ウィティキウスと異端の問題について論じた論文(明治大学の坂本邦暢博士との共著)をIntellectual History Reviewという雑誌に寄稿しております。

 もちろん興味関心としては、17世紀だけではなく、後の時代の思想や思想家たちも含めることはできますし、現代思想にも関心があるので、哲学者スラヴォイ・ジジェクと神学者ジョン・ミルバンクの論争についての論文を発表したこともあります。しかしながら、専門領域は主に初期近代ですので、ニーバーから始まり、トレルチ、レッシング、さらにはベークやシュライアマハーにおよぶ、安酸先生の錚々たる業績について的確にコメントする資格があるとは思えません。ただ、キリスト教学という領域のなかで、スピノザという異端者を扱ってきた点と近代における神学と哲学、あるいは諸学との関係について関心をもって研究を進めてきたという点においては、わずかながら、そして僭越ながら、安酸先生のご関心と共通するものがあるかもしれないと思い、勇気を振り絞り、小柳先生からの非常に丁寧でそつのないお伺いに承知した次第でございます。したがいましては、会場の皆様にはいろいろと忍耐を強いることがあるかと存じますが、しばし拙いコメントにお付き合い頂ければ幸いです。

 人文学、すなわちHumanitiesが危機的な状況にあるのは周知の事実でしょう。アメリカの主要な研究大学では、少なくない数の教授職が削られたり、スタッフや博士候補生の削減、さらには学部の再統合はすでに日常的なニュースになっています。日本においても、文系学部は冷遇され、少子化の影響もありますが、博士課程の進学者数は大きく減っています。その理由としては、新自由主義的な考えに基づく、大学の職業訓練化やSTEM教育の重点化などがあげられますが、それに加えて重要な理由としては、極度の専門領域化によって人文学が陳腐なものとなってしまったことが挙げられるでしょう。世界的な大学改革の結果として、人文学にも理系学問の評価基準が適用されるようになり、専門領域を狭めた学術雑誌への掲載と引用件数によって学術的な価値が測られるようになっています。こうした基準に基づいて、採用や昇進が判断されるわけですので、研究者の方法論や分析対象も影響されないわけにはいきません。もちろん、これは現在進行中のものですので、まだそれほど影響を受けていない大学もあるでしょうが、早晩、浸透して行くことは確実です。それによって、簡単にいえば、安酸先生も述べられたように、視野狭窄症に陥って、人文学という学問がつまらないものになってしまったのです。

 人文学の一領域であるキリスト教学においては、状況はさらに深刻です。ここにおいても、専門領域は細分化し、聖書学と組織神学は対話不能ですし、キリスト教史においては、一般的な歴史学となにも変わりがありません。また、研究者の高齢化、若手研究者不足が非常に早いスピードで進んでおり、有能な若手はなぜかポジションを得られず、学問領域としては衰退の一途を辿っているといえるでしょう。もちろんその背景には、日本のキリスト教会の衰退があるのは否定できませんが、それ以上に、そうした教会の神学的な営み、あるいはその人的ネットワークにキリスト教学という学問領域が寄り添いすぎていたとは考えられないでしょうか?寄り添いすぎていたため、教会が衰退すれば必然的に本領域も衰退してしまうのです。

 こうした人文学やキリスト教学が直面する内憂外患は、落城寸前の名城の姿のようにも見えます。兵糧は尽き果て、兵士たちは疲労困憊。街道が封鎖されたため、救援物資や援軍は届きそうにもありません。こうした危機的な状況のなかで、助けはどこから来るのでしょうか?主要な街道でないのだとすると、裏街道以外に選択肢はありません。もちろんそうした裏街道を歩まれてきたのは、安酸先生だけではないでしょうが、その代表的な仕事を30年以上なされてきたのは、安酸先生だけといっても過言ではないでしょう。これは、記念行事での薄っぺらいお世辞でも、利害関係からの賛辞ではありません。それを明らかにするためにも、以下では、危機に直面する我々の学問領域が裏街道からの助けを受け入れるべき理由を手短に二つほどあげたいと思います。

 まず第一の理由は、安酸先生の研究対象が、近代がもたらしたキリスト教思想の危機を真正面から受け止めた思想家たちだったという点にあります。近代がもたらした危機とは、すなわち啓蒙思想と歴史主義です。これにより、聖書の記述を字義通り受け入れ、教義を構築することは不可能になり、あらゆる思想や信仰形態は歴史的に構築されているという歴史主義によって、伝統的な神学思想の真理性が失われてしまいました。しかし多くの人は、こうした危機を正面から受け止めようとはしません。むしろ、バルトやリンドベックやヴィトゲンシュタイン流に解釈されたトマス神学や改革派神学などの正統主義的な言語ゲームのうちに止まり続けるか、あるいは現実の教会が保障する制度や実践やネットワークに安住してきました。なるほど、複数の改革・長老派系の教団が乱立する米国中西部の神学校であれば、そうしたやり方も可能なのかもしれませんが、近代化が完成した日本社会にある大学において、そのようなやり方では諸学問領域との対話は叶いそうもありません。むしろ、一部の研究者を除いて、そうした対話を拒み続けてきたからこそ、キリスト教学という学問領域の衰退の理由があるのかもしれません。

 例えば、安酸先生の描きだしたレッシングは、一方で「正統的な神概念はもはやわたしにとっては存在しません」と述べつつも、無限的なものを有限的なものに還元することをよしとせず、あらゆるものの背後に存在する神概念を否定していません。このことは、「人間的意志の背後にそれに先行してそれを基礎づける神的意志を隠し持っている」という賢者ナータンの議論から導きだされた命題をみても明らかでしょう。ただし、安酸先生は、こうしたレッシングの神概念を汎神論的な傾向で解釈することをよしとせず、むしろキリスト教スピリチュアリスムスの伝統に脈々と流れる、万有在神論(Panentheismus)として読み解き、キリスト教学をより豊かにする方向に議論を進めています。

ここで一つだけ質問するならば、この神概念はなるほど啓蒙思想を超克させてくれるかもしれませんが、その一方で神義論において大きな問題が生まれるのではないでしょうか。『カラマーゾフの兄弟』のイワンやバルトの『ローマ書講解』を引き合いに出すまでもなく、世界に存在する悪の問題は、万有在神論に最大の難問を突きつけているようにもみえます。『レッシングとドイツ啓蒙』のなかで示唆されつつも、紙幅を割かれていなかったこの問題を短い時間のなかでお答えいただくのは難しいかもしれませんが、その一部でも拝聴できたらと思います。

 啓蒙思想に並んで歴史主義についていえば、安酸先生の提示したトレルチはそれを乗り越えるにあたって重要な契機を与えているようにもみえます。今日の思想研究においても、歴史主義はいまだ猛威を奮っており、あらゆる思想研究が思想史研究になっていると言っても過言ではないでしょう。かくいう私の研究も、研究対象をその社会的・思想的な文脈にそって歴史的に読み解くというものです。そこには、現在の我々にとって有益な思想を提唱するというよりも、歴史的・客観的に何が言えるかということが念頭に置かれています。しかし、そのような研究は、現代においてなにか新しいものを創造するというよりも、やがてノスタルジックな懐古趣味に終わってしまう可能性があります。

 しかしトレルチに誘われて、この歴史主義を徹底するとどうなるでしょうか。徹底した歴史主義は、過去の思想家や思想だけではなく、歴史化を行っている認識主体としての自己をも歴史化しようとするといいます。しかし、この瞬間において、唯一、歴史化されえない事象が生み出されてくるのです。そしてその瞬間に、未来へと方向付けられた新たなヴィジョンを示すことによって、新しい歴史の流れは築かれると安酸先生は、教え子である塩濱氏の研究に依拠しながら論じています。この点について詳しく伺いたいと思いますが、この新しい流れを生み出すような人文歴史研究をまさに安酸先生の『キリスト教思想史の隠れた水脈』や『欧米留学の原風景』は行っているようにもみえます。つまり、これまで繋げられることのなかった連関を新たに創出することによって、新しい歴史の流れを築くことを試みられているのではないでしょうか。もちろんそうするなかでも、認識対象を徹底的に歴史化することを忘れることなく。

 裏街道からの助けを我々が受け入れるべきもう一つの理由は、近代の危機を真正面から受け止めた上で、現代神学を構築する契機を先生の仕事は与えてくれるからです。これはキリスト教学という学問というより、神学という学問の可能性を問うことにもなります。というのも、近代の危機を真っ向から受け止めた結果、得られた神概念を契機に神学をすることができれば、諸学と和解(Versöhnung)するかたちで神学を行うヘーゲルやバルトとは異なり、諸学と関係をもちつつも、距離をたもちながら神学を行うことができるからです。レッシングやフランク、あるいはスピノザとの対話を促すこの営みは一見異端的に見えるものの、衰退しつづける教会にとって一抹の光とはならないでしょうか?現代日本のある神学者の次の言葉は、こうした状況を的確に表しているようにもみえます。「もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとする・・・正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない。」[1]

 これまでキリスト教学や神学という学問領域との関係において安酸先生のお仕事を振り返ってきましたが、こうした仕事の背後にあり、諸学との関係においてなによりも重要なのが、レッシングにも見出される、我々を真理へと駆り立てる情念についての考察です。最後にこのレッシングの一文だけは引用しておきましょう。

 

人間の価値は誰かある人が所有している真理、あるいは所有していると思っている真理にではなく、真理に到達するためにその人が払った誠実な努力にある。というのも人間の力は所有によってではなく、真理の探究によって増すからであり、人間の完全性が絶えず成長するのは、ひとえに真理のかかる探求によるからである。所有は沈滞させ、怠惰にし、傲慢にする[2]

 

ポストトゥルースの時代、専門領域の確立と論文量産の時代、アイデンティティ・ポリティックスとポリティカリィ・コレクトの時代において、こうした訴えはあまりにナイーブに、また空疎に響くのかもしれません。あるいは、制度的な教会が衰退し、宗教よりむしろスピリチュアル・マーケットが消費主義社会のなかで生み出され、思想よりも自分のアイデンティティにあう宗教実践を気分の赴くままに選択できる時代において、果てしない時間と労力のかかる真理探究は、「コスパ」が悪く、時代遅れなのかもしれません。しかし、そのような時代だからこそ、キリスト教学は近代的な啓蒙思想や歴史主義がもたらした危機を契機ととらえ、そのつむじ風に巻き上げられることで浮かび上がってくる神概念を提示する必要があるのではないでしょうか。というのも、この神概念は、真理へ到達するための誠実な努力、あるいは真理への探究心そのものとの関係のなかで浮かび上がってくるもの、あるいはそれそのものなのかもしれないからです。そこに現代のキリスト教学、あるいは神学のひとつの課題があるとすれば、諸学との関係においても非常にエキサイティングで、より自由で、享楽的な学問領域となることでしょう。

 少し長くなりましたが、コメントを一旦終わらさせていただき、引き続き安酸先生と議論させていただければと存じます。ご清聴ありがとうございました。

 

[1] 森本あんり『異端の時代:正統のかたちを求めて』岩波書店、2018年、254頁。

[2] LM 13, 23­–24. 安酸敏眞『キリスト教思想史の隠れた地下水脈』知泉書館、2020年、151–152頁。

 

いけにえの羊 

ふと頭を上げると一頭の羊がいた。羊のわりにはからだが大きい。ゆっくりと全体を見回してみると、人間のような顔がその羊にはついていた。羊も気づいたようで、こちらを警戒しながらみている。おたがいに何も言わずに観察をしている。羊の顔はとてもうつくしく男性とも女性ともとれるような顔であった。目の辺りにはすこしばかりの涙のあとがみえる。

 

 「ここにいたか。」という声に気づくと、横には大きな男が重そうな斧をもって立っている。私は驚きもせずその男をみつめていると、大きな男はその斧をこちらに差し出す。

 

「はやくしたほうがいい。痛みは感じないように早くするんだ。」身体が大きいがとても優しそうな目をした男は、重そうな斧を私に持たせようとする。その男が言わんとすることは、説明されなくとも理解できた。

 

「ありがとう。」と私は大きな男にいうと、その差し出された斧を両手でうけとる。軽々と大きな男がもっていたその斧は、私にはずしりと重い。持てない訳ではない。でも力を振り絞らないと、うまく使うことはできないだろう。

 

もういちど羊の方をみると、その男性とも女性ともとれる美しい表情は、状況を受け入れたかのようにもみえた。羊はしばらく大きな男の方をみていたが、その美しくも悲しそうな目を私の方へ向けた。

 

「腰からはじめるといい。」優しい顔をしていた大きな男も、すこし悲しそうな目で羊をみながら、そう私に伝えた。羊に一歩近づくと、羊は後ずさりもせず、私を見つめ続けていた。

 

斧を大きく振りかぶると、私は力の限り羊の腰へ、その重い斧を打ち込む。ずしんという鈍い感触が手に残る。幼いときに父の手伝いで暖炉用の薪をきる時に、あやまって薪切り台に斧を打ち込んでしまったときのようだ。

 

生きている羊にしては、腰骨が固すぎる。皮膚は少しきれたようだが、羊の腰はびくともしない。羊は目をつぶり、ことがおわるのを待っているようだった。気を取り直して、なお私は斧を振りかぶる。またずしりとした感触が手に残る。その行為を、何度も何度も続けているうちに羊の胴体は二つにわかれた。

 

汗だくになりながら、一心に斧を振りかざしていた私のよこで、固い腰骨をもつ羊が痛みに耐えているのがうかがえた。「次は頭をやってあげるといい。早くやってあげないと痛みが大きすぎる。」と大きな男は目を伏せながら私にそう語る。なぜこのような行為をしているのか。必要なのはわかっている。だが、これほどの苦痛をこの羊に強いることが私には許されているのだろうか。

 

ここまできたら迷いはゆるされない。羊の痛みは増す一方だ。大きな男がいうように早く頭を砕かなければ、苦しみが無駄になってしまう。疲れ果てた身体をうながし、斧をつかみ羊の頭へ斧を打ち込む。羊の目は閉じたままである。この頭の骨も、腰骨と同じように固い。何度も何度も斧を振り込まなければならない。振り込むうちに悲しみで心が張り裂けそうになる。

 

ようやく羊の頭の骨がくだけると、その中から白く輝くものが流れ出ていった。十秒ほどそれは流れ出し、流れきると、羊は完全に死んだようだ。それからしばらく美しい羊をみていた。血はなく、ただ胴体が二つに分かれ、頭がくだけていた。私の張り裂けんばかりの悲しみは、涙として流れ出し、地面にぽたぽたと落ちていく。「ありがとう。」聞こえないほどの小さな声で、私は羊に思いを伝える。白く輝くものが流れ出てしまった美しい羊には、届かない言葉だろう。だがなんども伝えた。

 

ふと気づくと大きな男はいなくなっており、ぽつんと私はその羊と共にいた。くだけた頭のあたりをおさえて「ありがとう。」といっているうちに、 私は目が覚め、幻はそのまま融けていった。

 

 

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デューラー《子羊の前の選ばれしものたち》(1511年版、黙示録7章および14章より)

 

 

 

 

挑戦--2017--

重なり合う音が海上から静かに浮かび上がってくる。その音に身を任せながら、精神が物体を伴い動き出すのを感じる。水面上の光は、水の色を幾重にも変え、移ろいながらも、留まり続けるいのちの本質を浮かび上がらせてくれる。その一筋の光が重厚な石の部屋を照らす様子は、まるで恩寵が満ちていくよう。

 

あのゴルゴダの丘の古く血の匂いが鼻をつくほどの十字架が、いま闇を照らす光の筋としてある。冷たい石の部屋は次第にほのかに暖められ、その暖かさはじっと動かずにいた数々の生き物たちを活動的にさえする。

 

光はまた人々をその恩寵の部屋へ誘う。光に照らされ、暖められたその部屋で人は何を思うのだろうか。恩寵のイデアを建物として地に根を張らせた創造者を思うのか。あるいは、その光を与え、十字架を与えた創造者を思うのか。ああ、遠くに鳥のさえずりが聞こえ始める。

 

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日本宗教学会:パネル「20世紀ユダヤ哲学再考:政治と宗教のはざまで

 日本宗教学会に参加した。多くの興味深い発表があったが、とりわけ勉強になったのは二日目の午後に行われたユダヤ哲学についてのパネルであった。北九州大の伊原木さんがオーガナイズしたこのパネルは、「20世紀ユダヤ哲学再考:政治と宗教のはざまで」と名付けられ、まず気鋭の若手・中堅研究者によるコーエン(後藤正英)、ローゼンツヴァイク(佐藤貴史)、ブロッホ(伊原木大祐)、そしてレヴィナス(松葉類)についての発表があり、その後、合田正人さんのコメントという流れとなっていた。


 それぞれの発表は非常に充実しており、論文化されたものをぜひ読みたいと思わさせられた。だがそれにも増して興味深かったのは、合田さんのコメントとそれに対する返答である。なかでも佐藤さんとのやりとりは非常に印象的であった。佐藤さんによると、今回のパネルの副題である「政治と宗教のはざまで」には、ひとつの隠れた主題があるという。それは、「アテネとエルサレム問題」という時の、「アテネ」に潜む「ソクラテス問題」であり、それこそがまさに政治における哲学の問題である。だとするならば、その背後に潜むのは、この問いを考え続けたレオ・シュトラウスの影であり、シュトラウスによるユリウス・グットマンの『ユダヤ哲学』批判だというのだ。シュトラウスの指摘は、グットマンの著作には政治的なものが欠落しており、スピノザの問題への根源的な解決がないというものであった。この問題を掘り下げるのが本シンポのひとつの目的であったと佐藤さんは語る。


 その後も興味深い応答が発表者とコメンテーター、またその場にいたユダヤ教研究者からの鋭い質問を交えてなされていった。残念ながらフロアとの議論が盛り上がり始めたところでシンポの終了時間となった。


 充実したシンポであったが、問題設定について少し疑問が残った。たしかにユダヤ哲学を扱うには、佐藤さんのいうようにスピノザ・シュトラウス的な問題が念頭にあるべきで、その点においては哲学・政治的な問題設定は正しい。だからこそ、そこにはメシアニズムやトーラーといった宗教・政治的な主題が深く結びついてくる。だが、同時にユダヤ哲学における宗教的なディメンションを考えるにあたって、それだけで十分なのだろうか。というのも、この問題設定だとユダヤ教に残る異教的・エジプト的なものがまったくといってよいほど捨象されてしまうからだ。逆からいうと、アテネとエルサレムという問題設定自体が、すでに一定の宗教理解を前提としており、宗教的な問題のなかに残り続けていた要素を覆い隠してしまうのである。だとすると、ユダヤ哲学は、アテネとエルサレムの関係のなかだけではなく、そこにアレクサンドリアを加えて語られなければならないのではないだろうか。今回扱われたユダヤ人哲学者の置かれた状況をみても、民主的なポリスよりも、運命を翻弄するヘレニズム的なものにこそ、その本質が見出されるような気がしてならない。伊原木さんが発表のなかでも少し言及していたが、これこそがブロッホによると、モーセの対峙した「世界盲信の、あるいは星辰神話的宿命の宗教」なのである。


 アテネとアレクサンドリア問題としてのユダヤ哲学、あるいはそれにアテネを加えた三都市の問題としてのユダヤ哲学。シュトラウスの影と同時に、ヴァールブルクの影との戯れである。



ユダヤ哲学―聖書時代からフランツ・ローゼンツヴァイクに至る

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政治哲学とは何であるか? とその他の諸研究

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レヴィナス 犠牲の身体

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ドイツ・ユダヤ思想の光芒 (岩波現代全書)

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根源悪の系譜―カントからアーレントまで (叢書・ウニベルシタス)

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吉田隆『カルヴァンの終末論』

吉田隆『カルヴァンの終末論』教文館、2017年。


 あの大震災を体験したのは、本書の元となる博士論文を指導教官へ送った午後だったという。仙台の牧師であった著者は、震災と被曝による死の恐怖を内側に抱えつつ、ひとつの終末を体験する。しかしそのような苦難のなかでも、教派を超えたキリスト者たちがともに働く喜びに満ちた体験は、著者にもうひとつの終末体験を与えた。苦難のなかの喜び。これこそが震災後の世界で著者の知る終末の希望であり、震災以前にカルヴァンの終末思想のうちに見出していたものでもある。


カルヴァンの終末論

カルヴァンの終末論

政治神学と新刊

今後刊行されるものもふくめて、政治神学関連でいくつか重要なものがでている。


アバディーン大学のMichael Richard Laffinによる『ルターの政治神学の約束』(T&Tクラーク、2016)。ルターの政治神学、ひいては宗教改革思想の現代的な可能性を模索したもの。近年の宗教倫理学を牽引するジョン・ミルバンクとジェニファー・ハートに対する批判でもある。ラフィンの博士論文はこちら




もうひとつ政治神学関連。W. Bradford Littlejohnによる『キリスト教的な自由の危機と約束』(アードマンズ、2017月5月刊行予定)リチャード・フッカーとピューリタンの政治神学についての考察。オリバー・オドノヴァン(エディンバラ大学)のもとでの博士論文。




ラフィンもリトルジョンもスコットランドで学位をとったアメリカ人。両者ともに教派的には福音派というのが興味深い。



最後は巨匠。「神の死の神学」で有名なトマス・アルタイザーの論集が今年の11月に刊行予定。今年90歳のはずだが・・・『サタンと黙示:政治神学についてのいくつかの論文』(ニューヨーク州立大学出版会、2017年11月刊行予定)最近、ジジェクがよくとりあげていたので、なにかと話題にはなっていた。


Satan and Apocalypse: And Other Essays in Political Theology (Suny Series in Theology and Continental Thought)

Satan and Apocalypse: And Other Essays in Political Theology (Suny Series in Theology and Continental Thought)

エラスムス大学

年度末の在外研究でロッテルダムに滞在した。ほんの2週間強だが、非常に充実した時間であった。2018年度から一年間、在外研究する予定があり、その渡航先がロッテルダム大学哲学部なのである。今回の滞在はその準備という目的もあった。受け入れてくださるハン・ファン・ルーラー教授とはここ数年の付き合いであり、非常によくしてくださる。今回も到着前に色々と手配してくださっていたようで、哲学部の一角にオフィス、メールアカウント、図書館カードなど、良い環境を整えてくださった。


ロッテルダム・エラスムス大学には17世紀思想史の専門家がそろっている。デカルト主義の研究をするファン・ルーラー教授、オランダにおけるスピノザ主義の研究では第一人者のヴィープ・ファン・ブンゲ教授、ロック研究では著名なポール・スクールマン教授、スピノザとスコラ学の関係を専門とするヘンリ・クロップ教授など。日本の研究者とも関係があり、非常に素晴らしい環境である。このような場所で時間を過ごせることを心より感謝。


また滞在中に偶然、仲間の博士論文の口頭試問も見る機会に恵まれた。よい口頭試問であった。その大学の研究所にも以前滞在したことがあったので、以前の友人たちと再会もできた。


蛇足だが、今回は宿もよかった。いつもはホテルなのだが、今回はロッテルダムだけに2週間ということもあり、Airbnbを初めて利用してみた。大学から5分、まどから哲学部の建物が見える場所に宿はある。これが非常に便利なのだ。日本では1時間以上の通勤がやはり身体を疲弊させるということがよくわかった。