マイヤー『レオ・シュトラウスと神学-政治問題』

レオ・シュトラウスと神学‐政治問題

レオ・シュトラウスと神学‐政治問題

  • 作者: ハインリッヒマイアー,Heinrich Meier,石崎嘉彦,飯島昇藏,太田義器
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 2010/10
  • メディア: 単行本
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学会発表のために読んだので、少し感想を書いてみる。

マイヤーのシュトラウスの神学・政治問題についての著作を読んだあと、考えさせられた。なぜ現代において神学・政治問題を考えなければならないのだろうか。神は西洋社会から退き、教会はその影響力をなくし、ひとびとは世俗社会を享受しているのではないか。つねに背後にたち、良心の呵責をもって、われわれを恐れさせ、世の権力者におもねりへつらわせたあの神は抹消されたのではないか。場を日本に移してみれば、神学問題などは存在しておらず、とくに世俗化が進む現代において神学・政治問題を問うことの自明性はないように思われる。


では、なぜいま神学・政治問題に目をむけるのだろうか。それはわれわれが見かけとは逆にいまだこの神学・政治問題から抜け出ていないからだ。表立った神の象徴がなければないほど、神学・政治問題は深刻になる。なぜなら現代人の意識の下には、西洋社会によって媒介されたキリスト教の問題がのこり続けるからである。また、このキリスト教の問題と同時に、広義の神学として、システム化されえない象徴の連鎖を「神学的」とよぶことができるからだ。ジジェクは、神学とは大文字の他者であり、1960年代以降の世俗化された社会においても、この大文字の他者は形を変えて存続すると主張している。


シュトラウスにとっても、同時代においてバルトやローゼンツヴァイクによる狭義の神学の復興があったのみならず、ナチスの「神学」がおおいに問題となった。政治の神学化が進めば進むほど、哲学の可能性はせばめられ、その生存権は脅かされる。自由にものを語ることが禁止された社会においては、哲学はひっそりとしか暮らすことができない。また、ものを語る自由の禁止は必ずしも上からの抑圧によっておこる訳でもない。社会のリベラル化がすすめばすすむほど、オートマトン化、あるいは動物化された欲望が哲学の自由をうばう。哲学以外によってエロースが消化され、哲学の自由は形式的にあるものの、その現実化は難しくなる。


特に欲望が加速化する現代社会において、この加速化を推進する神学的な思考が、哲学の現出を阻んでいるといっても過言ではない。とすると、神学・政治問題の「神学」とは、イデオロギー的な束縛になるのだろうか。この路線でシュトラウスを理解すると、神学の系譜学があまり意味をもたなくなる。明らかに神話-神学-哲学というながれのなかでシュトラウスは系譜学を構築しているし、また法との関係性のなかでこの三者を論じている。では、神学という問題は、つねに「神とは何か」(Quid sit deus?)を問わねばならないのか。しかも、この「神」(deus)は、神話的な普遍性と多様性のなかにある神ではなく、一神教の伝統の中の神が想定されている。すると、日本という土壌にはこの神学・政治問題は成立しなくなるのではないだろうか。この神学の限定的な理解がシュトラウスの論考の弱さではある。


そのような現代的な問題はあるものの、シュトラウスの定義する狭義の神学問題もわれわれに伸し掛かってくるのは事実である。哲学を生き方として理解する場合には、必ず死の問題と道徳の問題が出てくる。その両方を司るのが、神学である。向こう側から語りかけてきて、全体性を要請する神学は哲学を不必要なものとする。神学の問いの前に、哲学は答えをもっていなくてはならない。この問いの忘却とそれに答える術の喪失が、現代の哲学の弱体化と衰退の大きな原因の一つではないだろうか。マイヤーの著作は、シュトラウスの思想を理解する以上に、哲学の持つ本質的な問題に目を向けさせてくれる。