ヨゼフ・フロマートカと佐藤優

神学入門: プロテスタント神学の転換点

神学入門: プロテスタント神学の転換点

  • 作者: ヨゼフ・ルクルフロマートカ,平野清美,佐藤優
  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 単行本
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この本の詳細な書評は京都大学の上原さんが行っているのでそちらを参照されたい。ここでは監訳・解説の佐藤優がなぜこのタイミングでフロマートカの『神学入門』を世に問うたのか少し考えてみたい。


フロマートカの原典は 1948/49年の講義をもとに1955年に刊行されたものである。また第二版が「ビロード革命」前の1979年に出版されている。では、なぜ震災一年後のタイミングで(刊行は2012年4月1日)、50年以上前の本を翻訳し、出版するのか。


フロマートカの神学には危機を克服させる知恵があると佐藤は確信している。佐藤によれば、この知恵をもとに日本のキリスト教徒は東日本大震災によって顕在化した危機にあって、具体的な現実に参与することができる。これが、いまキリスト教会がフロマートカを読むべき理由である、と熱意をもって佐藤は語る。


しかし、フロマートカを読み進めてみると、彼の語る「危機」と佐藤の語る東日本大震災という日本の「危機」が実は同じものではないということがわかってくる。では佐藤は根本的な誤読をしているのだろうか。そうではない。逆説的ではあるが、佐藤は、まずフロマートカの語る「危機」を理解しなくては、大震災後の日本が直面する「危機」にたちむかうことはできないと主張している。これはどういうことか。


フロマートカは、危機には二つの意味があると論じる(154頁)。一つは第一次世界大戦でおこったような、文明と文化のある程度の崩壊である。従来信じられてきた社会的な共通概念が破壊されるような事件が危機である。この意味において、東日本大震災という危機は、これまで私たちが共有してきた電力会社への信頼や安定した社会といった概念をある程度崩壊させた。


危機の二つ目の意味は、社会的、政治的、文化的、そして哲学的危機から派生したものではなく、聖書に登場するクリシス(Krisis、審判)という概念から派生している、とフロマートカは語る(156頁)。この聖書的な危機は、突き詰めれば全人類に発せられた神のさばきに由来する。神の言葉を読むとき、そこに神の人間への決定的な審判を理解することができ、その裁きのうちにあってのみ神の恵みを理解することができる。この神学的な意味での危機が実は、フロマートカが注目する危機なのである。


フロマートカが重要視する危機は東日本大震災のような社会的な危機ではない。しかし、フロマートカの語る危機を経なくては、キリスト教会が今日の日本を襲う危機を克服できない。この逆説への確信が、フロマートカの日本語訳の刊行を、本来の計画を前倒ししてでも始めた佐藤の動機であったのだろう。どういうことか。


佐藤によると、フロマートカの理解する神との対峙なくしては、教会は神のことばを理解することができない。神のことばを理解することなしには、教会の政治的・社会的貢献は何らかの人間的理想によってなされることになる。神のことばではなく、人間的理想をかかげる教会はすでに社会的な危機の中にとりこまれており、現状の危機を克服していくことはできない。人間的に神や危機を理解するのではなく、聖書によってしめされる神学的な危機に対峙しなければ、教会がどのような危機をも克服していくことはできない。そうフロマートカは語り、そして佐藤もこの根源的な危機にまず私たちは向き合わなければならないと語っているのではないだろうか。


日本の現状に立ち返ってみれば、キリスト教会も佐藤が記すような現代日本の危機のうちにすでにどっぷりとつかっており、教会自身の努力によってはどうにもならないものがある。この危機的状況において教会はもう一度、神のまえにたち神のさばきを見つめ直さなければならない。そのために佐藤はフロマートカのこの本をこのタイミングで世に問うたのではないだろうか。


もちろん疑念は残る。今日フロマートカの危機神学にその力はあるのだろうか。そもそも1920年代に始まった思想的運動に思想史的な意義以外のなにかはあるのだろうか。それとも、フロマートカが語るように、「人間の歴史はなんらかの形で絶えず同じ問題に言及する」ゆえ、歴史を超えた問題にフロマートカの語る危機は私たちを向かわせてくれるのだろうか。これは私たちがおのおの自問していかねばならない問いであろう。


最後にフロマートカの言葉をひいておく。


どのような歴史的変化が生じようとも、人間の状況は同じままである。私たちの状況はアダムの状況と似たようなものなのである。そして、歴史的生について私たちに語る聖書は、歴史の経過の背後にとどまるもの、かわらないものを絶えず指摘するのである。(184頁)