グラハム・ワードとポスト・モダンなカール・バルト

Graham Ward, “Barth, modernity, and postmodernity,” Cambridge Companion to Karl Barth (Cambridge: Cambridge University Press, 2000), 274-295.


グラハム・ワード(1955-)はジョン・ミルバンクやキャサリン・ピックストックらとともにラディカル・オーソドクシーというポスト・モダンなキリスト教神学運動の中心的メンバーである。ワードはデリダとバルトの比較も試みている。現在オックスフォード大学の欽定教授。


本論文でのワードの結論としては次の通りである。バルトの近代批判は近代を完全に否定するのではない。また、近代以前の時代の憧憬からでもない。バルトは、近代を超えることによって近代を否定する。ゆえにバルトはポスト・モダンとよばれる思想家たちよりもポスト・モダンだ、と。


ワードの理解するバルトは、ヨハン・ゲオルグ・ハーマン(1730-1788)やキルケゴールの流れに属する神学的保守主義者である。ゆえにバルトの福音は近代的存在論に反対するものとして理解されている。もちろんこのバルト以外のバルト解釈も存在する。


バルトはどのように近代を超克していくのだろうか。ワードによるとバルトの神学には、大きくわけ三つの近代批判がある。ひとつめは、反・基礎付け主義。バルト自身は徹底した懐疑論者であった。究極的には世界は不可知な三位一体の神によって作られたものである。ゆえに、人間の独断や可変的なものに基礎付けて世界を理解することは不可能である。つまり、キリストの類比をとおして世界をみなければ、世界に関する知識は不確実なものである。


二つ目は実体論の批判。ワードの理解するバルトは新カント主義者である。主体の外にある世界を、感覚を通して直接理解することは不可能である。自己意識のそとに飛び出すことはありえない。言語は人間を中心とした世界をつくりだす。世界を理解するのではなく、人間の恣意的な世界理解になる。新カント主義者としてのみならず、世界の創造者としての神の存在を信じるものとして、バルトは人間の恣意的に解釈する世界が、実際に存在する世界と認めることはできなかった。これは三つ目の批判に続く。


三つ目は人間中心主義の批判。デカルトによって始められた一人称のエゴによる世界構築は、共同体や他者との紐帯を破壊した。これは独断的な価値判断しか生み出すことができず、ニヒリズムにいきつく。バルトによると人間は第一義的に神との契約のうちに存在する。ゆえにいっさいのものを命名する主格としての存在ではなく、神によってよばれる対格としての存在である。


ワードは、これら三つの批判に基づくバルトの神学による近代の超克を評価する。しかし、まだバルトの神学には足らないところがあると語る。それはバルトの二元論である。バルトにとって恩寵・自然、啓示・理性、創造者・被造物、神・人といった二元論は絶対的であった。ワードは相互にまじわることのない二元論は、オッカム的であるという。ゆえに唯名論的な二元論は、参与論をもって克服されなければならないという。上述された二項が絶対的に相反するものとして考えられるのではなく、恩寵のうちに参与する自然、創造者のうちに参与する被造物として考えられなくてはならないとワードは論じる。


この参与の概念こそがラディカル・オーソドクシーの中心にくる概念である。それについてはまた後日。