『お早よう』小津安二郎

『お早よう』小津安二郎
1959年 松竹


なんてことはない日々のことばの紡ぎ方を題材にしてコミュニケーションの問題を描いた作品である。


この映画がコメディーである理由は、扱っている題材の深遠さがあらわれ、またかくされるのにもっとも適したジャンルであるからであろう。こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーンを思い出してもらいたい。この映画の中心的キャラクターである実がともだちに頭を小突かせて、勝ち誇ったようにおならをだす。それを何度か繰り返すという微笑ましいシーンである。こどもたちがこのかわった遊びをする理由は、実の友人の父がおならをつかって自分の妻をよぶからである。あいさつやなんてことのないことばは、実は肛門からもれる空気と代替可能であると小津はかたっているのではないだろうか。つまり、あいさつなんて放屁のようなものだ、と。


人間の共同体においては、この放屁のようななんてことのないことばを通してコミュニケーションが成立する。なんてことはないことばに満ちているのが人間の共同体であり、また、この「なんてことのないことば」が消滅してしまうやいなや、ただちに共同体の紐帯に亀裂がはいる。あいさつのようなあまり意味のないことばが、実はひととひととの信頼を織り、日常を日常たらしめる。同時に、共同体の円滑をもとめるあまり、あいさつや意味のない天気の話によって伝えるべきことがなおざりにされることも事実である。コミュニケーションを円滑にする「なんてことのないことば」に満たされることによって、本当のコミュニケーションはなされることがなく、真の意味でのひととひととのつながりが希薄になる。


映画に戻ろう。実と実の弟はあることをきっかけにまったくことばを発しなくなる。沈黙をたもつ。このことは、あいさつやあまり意味のないことばで成立している大人の社会に対してのかれらなりの抗議であった。しかし実がいっさいことばを発さなくなることによって、実の母親の共同体での立場が一気にわるくなる。となり近所がとても近い長屋のようなコミュニティーでの話である。その狭い空間で知り合いのおばさんへの挨拶を怠ることは、実の母親と長屋にすむ女性との関係を破壊することになる。たった一言の「お早う」がないことから。


実と実の弟が沈黙をやぶるのは、願っていたテレビを父親が買ってくれたからだ。駄々をこねそれが理由で父親にしかられ黙りを決め込んだ実は、テレビの購入をきっかけにもういちど声を発するようになる。つまり、実はテレビを購入と同時にことばを取り戻す。しかし、同時にテレビがことばを取り去るということも小津は暗示している。どういうことか。


実の父親がある居酒屋で隣人と話しているシーンを思いだせるだろうか。実の父親は、テレビは日本人一億総白痴化の危険性があるとして、購入をしぶる。しかし自分のこどもたちがテレビを理由にことばを発さなくなると、しぶしぶテレビを購入する。ことばを守るためにテレビの購入を控えていたのにも関わらず、こどもたちの願望を受け入れない父親の行為がこどもたちに口を閉ざさせる理由になっている。テレビの介入によって、ますますことばは意味あることを語るのをやめ、家族のコミュニケーションはテレビを介してなされることになる。小津はその危惧すべき将来をみていたのではないだろうか。


ラストシーンで、佐田啓二ふんする福井が、密かに思いを寄せる節子と偶然駅のプラットホームで出会う。しかしそこで福井は、「なんてことのない」天気の話をする。「あぁ、いいお天気ですね。」と福井はやり、それに対して節子も「本当、いいお天気。」と返す。いい天気が数日つづくかどうか、雲がなにかに似ているかなど他愛もないことばを繰り返す。最後に福井がふたたび、「いいお天気ですね。」とやり、それに対して節子も「本当に、いいお天気。」と返す。結局、節子への福井の想いは、「天気の話」にかくされてしまう。本当に大切なことばが「なんてことのない」ことばにかくされてしまう。これがことばの残酷なまでの真実である。


なんてことのないことばは人間の共同体の安寧に不可欠であるが、同時に本当に大切なことばをかくしてしまう。このパラドックの残酷性を小津はたんたんとコミカルな音楽にのせていとも軽く語ってしまう。いや脱帽だ。


お早よう [DVD]

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