スピノザの聖書解釈の矛盾

Steven Nadler, “Scripture and Truth: A Problem in Spinoza’s Tractatus Theologico-Politicus” in Journal of the History of Ideas 74.4 (2013): 632-642.


Journal of the History of Ideasの十月号には、スピノザの聖書解釈が小特集としてとりあげられている。日本語にも訳された『スピノザ—ある哲学者の人生』(有木宏二訳、人文書館、2012年)の著者であるウィスコンシン大学のスティーヴン・ナドラーを中心に、マギル大学のカルロス・フランケル、ヘブライ大学のゼヴ・ハーヴィーの三本の論文が掲載されている。今回はナドラーの論文を簡単に紹介する。


スピノザの『神学・政治論』は、様々な方法で解釈者を惑わせてきた。著者のスティーヴン・ナドラーは、その内の一つの重要な謎にこの論文で挑んでいる。ナドラーの疑問は単純なものである。聖書解釈についてスピノザは、保守的な神学者たちのように神学に従属させるのでも、またマイモニデスのように哲学に従属させるのでもなく、歴史・批判的方法論をもちいて聖書は理解されなくてはならないといっている(『神学・政治論』第15章)。それにもかかわらず、スピノザは聖書のなかに自然法則に明らかに反した記述があれば、それは神をも恐れない冒涜者によって加えられたものだろうともいっている(第6章)。どういうことかというと、聖書の記述を自然法則に基づいて読むのであれば、聖書を(自然)哲学に従属させていることになる。このスピノザの記述は、先に紹介したスピノザの聖書解釈学における原理に矛盾するものではないだろうか。


この矛盾に対して、ナドラーの提示する解決策は次の通りである。つまり、自然現象はすべて自然法則に従っており、たとえ奇跡として解釈されたとしても(それが聖書の奇跡の記述となっている、とスピノザは理解する)、事実は自然法則で説明されうる。例えば、ヨシュア記10章13節で、神が太陽の動きを止める記述があるが、これはヨシュアがそのように解釈したのみであって、太陽の運動は自然法則に乗っ取っていた、とスピノザは理解している。預言者は道徳的に優れた人々なので、読者を欺くことはしない。それゆえ、奇跡のように書かれた記述は、現象を秀でた想像力によって解釈した結果にすぎず、現象自体は自然法則に反していない。これがナドラーの解決策である。


もちろん疑問は残り続ける。ナドラーは最後に次のように記して論を閉じている。

第六章に記されているように、聖書、いやむしろ預言者である聖書の著者たちを正確に解釈できたら、すべての記述は、奇跡的にみえるようなものであっても、自然的な原因に起因するものであるとなぜスピノザが信じているのかは、依然疑問として残っている(641-642)。


これをどう考えていくのか。それが今後の課題である。

スピノザ―ある哲学者の人生

スピノザ―ある哲学者の人生