ポスト・カント的スピノザ主義者としてのシュライアマハー

Julia A. Lamm, “Schleiermacher’s Post-Kantian Spinozism: The Early Essays on Spinoza, 1793-94,” The Journal of Religion 74.4 (1994): 476-505.


この論文は1793, 94年にシュライアマハーによって書かれたスピノザに関する二本の論文の分析を通して、シュライアマハーをポスト・カント的スピノザ主義者として理解するものである。ポスト・カント的な思想をもっているとはいえ、フィヒテやラインホルトらとは一線を画すシュライアマハーの思想は、スピノザ主義の枠組みをとおして理解されるときよりいっそう鮮明となる。また、カントを乗り越えるためにスピノザに傾倒したヘルダーと違い、シュライアマハーはスピノザを近代化するためにカントの批判哲学を必要とする、と Lamm は論ずる。


初期シュライアマハーのスピノザ理解はヤコービの見解をもとに、それを乗り越えていくものであった。ヤコービはスピノザ哲学を無神論的で唯物論的なものとして措定したが、シュライアマハーは唯物論・観念論の二項対立を超克するのにもっとも適している思想としてスピノザ哲学にむかった。


ヤコービによるとスピノザの理性中心主義は最終的に理性の否定となる唯物論的なニヒリズムにいきつくと論じる。同時にカントの超越論的哲学はスピノザのマテリアリズムを観念論的に転倒(inverted Spinozism, 480)させたものであるゆえ、ニヒリズムをさけることはできない。つまり、エゴが超越論的な視点をもつために自己を破壊しなくてはならず、エゴは概念に消化され、観念論的なニヒリズムを引き起こしてしまうと危険性を提示する、とヤコービは論じる。


これらのニヒリズムにいきつく理性中心主義に対してヤコービは知性的で人格的な世界の第一原因を信じる。これ以外の選択は、スピノザの唯物論やフィヒテの観念論としての思弁主義しかのこっておらず、必然的に自由と 有神論を破壊することになる。しかしながら、ヤコービにとってスピノザの無限概念は、唯物論的思考の中にありながらも世界の説明不可能性をしめし自由と有神論的信仰をふたたび可能にする重要な足がかりと確信していた。それゆえ自由と有神論信仰が信仰のあらわす対象の存在を明確にしてくれ、信仰がいっさいの知識の土台となるとヤコービは論じる。


このヤコービの唯物論と信仰主義の二項対立に三つ目の選択を提示するのがシュライアマハーの目的である。スピノザをカントの批判哲学をとおしてよむとき、この三つ目の選択肢が提示されるとシュライアマハーは論じる。


シュライアマハーのスピノザについて発表した初期論文は、基本的に当時彼の手のもとにあったヤコービのスピノザ理解の分析とそれに対する注釈が中心的である。しいてシュライアマハー自身の貢献をあげるとするならば、従来のスピノザ解釈を宗教的に昇華したことだろう。ヤコービはスピノザをライプニッツのような合理主義者として扱っているが、シュライアマハーはスピノザの思想と後者の思想には大きな違いがあると論じる。スピノザは合理主義と唯物論の支持者ではなく、むしろ、スピノザの 「生む自然」 natura naturansなどにあらわされる神の概念は人格的な存在ではないにしろ、生ける神の概念である、と。


シュライアマハーはスピノザの形而上学をそのまま取り入れるのではなく、カントの批判哲学を一度へてスピノザと向き合う (486)。ただカント哲学における、現象の原因としての「物自体」という無制限の存在は、それ自体因果律のもとに理解することが不可能なため、無制限であることはできないとシュライアマハーは記す。つまり、思考されるいっさいのものは意識において制限づけられており、ただなにものもこの制限をはなれ無媒介に存在することはできない、と。ゆえに「物自体」という概念はスピノザの絶対的に無限な実体概念に読み替えられなくてはならず、最終的にカントはスピノザ主義者だという結論に到達する。


シュライアマハーによると、カントとスピノザの類似性はともに知覚を成立させるために知覚を超えた存在の必要性を認識していたことだった。しかしカントの問題は上述したように、物自体を意識の制限づけの外側に位置づけたことにある。また、スピノザの誤りは思惟と延長の属性を人間の思惟を超えたところに設定したことにある。むしろ思惟と延長は人間理性のうちに見いだされなくてはならず、この点においてシュライアマハーはカントの批判哲学を支持している。形而上学から主体へのスピノザ哲学の転倒がシュライアマハーのいうところのスピノザの「近代化」である。このようにカントの批判哲学をもってスピノザをよむ、また、スピノザをもってカントを読むことによってシュライアマハーの思想が徐々にあきらかになる


シュライアマハーのポスト・カント的スピノザ主義の中心には神概念がある。1793/4年の時点でシュライアマハーは既に5年後の代表的著作『宗教論』であきらかになる神概念の根幹をスピノザの実体(substantia)理解を通してすでに育んでいる。


シュライアマハーはスピノザの実体をすべての属性の始源の状態である原質量(Urstof)とみなす。このことから延長は、いっさいの属性が内在する実在性の提示であり、思惟または意識はこの実体への根源的な感情から現出してくる。ここで重要なのは、知覚でも理性でもなく感情が、この実体とのコンタクトを可能にする媒介者であるということだ。このことが、意識は無限を表象として知覚や理解せずとも、それ自体として感じることができる理由である。シュライアマハー自身は、この無限を感じる感情(Gefühl)は、スピノザによるところの無媒介の概念(immediate concept)や直観(intuition)と同様のものと見なしている。


神は無限存在であるから、表象をとおして知ることはできない。人格の表象はあくまでも限定的・有限的なものであるから、無限存在である神を人格をもった存在と見なすことは不可能である。しかし同時に、神という概念が内実のない一般概念ではなく、みちみちた生命であることは否定することができないとシュライアマハーは論じる。そしてこの無限存在である神は感情をとおして人間に近づいてくる。ここに神と人間の関係を絶対依存の感情として表現したシュライアマハーの思想の原点がみえてくるのではないだろうか。


このほかにもLammはスピノザとシュライアマハーにおける個と全体の問題や有機的モニズム、また目的論、決定論について論じている。当時の科学や思想的文脈をふまえた有益な論考になっている。


The Living God: Schleiermacher's Theological Appropriation Of Spinoza

The Living God: Schleiermacher's Theological Appropriation Of Spinoza