ジョンミルバンクとラディカル・オーソドクシー

John Milbank, “Knowledge: The theological critique of philosophy in Hamann and Jacobi,” in Radical Orthodoxy: A New Theology, ed. by John Milbank, Catherine Pickstock, and Graham Ward (London: Routledge, 1999), 21-37.


 ラディカル・オーソドクシーとはなにか。この思想的ムーブメントのなにが革新的なのだろうか。基本的スタンスは啓蒙思想に対してである。近代の神学思想は、哲学に独立した領域を認めてきた。神学と哲学はあくまで異なった対象を分析するので、相互にかかわることはない、と。これはデカルト以降、オランダを中心に広がった議論である。デカルト主義に傾倒したオランダ改革派神学者たちは、神学を哲学からきりはなした。スピノザが『神学・政治論』を執筆した目的も、神学と哲学の領域を不可侵にすることだった。カント以降は、哲学が存在論と認識論をすべての学にあたえ、その枠組みの中でのみ思惟が可能となった。


 シュライアマハー以降の近代の自由主義神学は、啓蒙思想によって構築された存在論と認識論を前提としており、その枠組みのなかで神という対象を分析する。ゆえに神学が存在論と認識論にくわえるものはなにもなく、ただあたえられた思惟範疇をもちいて思考することになる。他方、新正統主義とよばれる自由主義神学を批判したカール・バルトやエミール・ブルンナーたちは、神学をいっさいの哲学的枠組みからきりはなし、独自の分野として、創造主としての神を分析し、また語る。バルトは、近代的な存在論と認識論から神学を自由にするために、極端なキリスト中心主義を掲げることになり、最終的には三位一体の父である神のアクチュアルな意志に、神学の学問的対象の一切を収斂する結果になる。ゆえに、いっさいの被造物は神の意志に還元されることになる。それは被造物自身の必然性を失うことでもあり、結果的にニヒリズムに抗うすべを失ってしまう。


 ミルバンクは両者に共通したこの近代的・啓蒙思想的前提を根本から問い直す。神学が哲学に独自の原理を与えたために、哲学は方向性を失い、最終的には懐疑的なニヒリズムにたどり着いてしまった。これをさけるための唯一の方法は、神学によって哲学を理解し直すことだ、とミルバンクは強く論じる。そしてその鍵を握るのは、18世紀末のドイツの思想界で、信仰を重んじ反啓蒙的な哲学を掲げたJ.G.ハーマン(1730-1788)でありF.H.ヤコービ(1743-1819)である、と。


 反啓蒙的なハーマンとヤコービは、デカルトの懐疑主義を超克することから始める。デカルトの思想は、知覚をふくむ人間の日常的な直観を哲学的考察から排除する。しかしヒュームやトマス・リードに依拠しつつ、日常的直観による実在(The Real)の可視性をハーマンとヤコービは論じる。これはつまり、感性によって知覚された表象は、実際に実在を表しており、すべてを数学的運動原理に還元するデカルトやスピノザの思想とはことなるものである。もちろん、アリストテレス主義のように感性の表象を形相として実体と同一視するのではなく、実体を表現するものとして理解される。


 このハーマンとヤコービの概念をもとに、ミルバンクは新プラトン主義的に解釈されたトマス・アクィナスの参与(participatio)の概念をつかい、神という最上の実体を被造物は多種多様な方法で表現すると論じる。ゆえに哲学もこの創造主である神を表現するものを語る学問であり、究極的な独立性は認められず、神学を概念形成の根底におく二次的な学問と理解される。換言すると、わたしたちの目に映る現象は、創造主である神を徴として表すものであり、虚無としての物自体が根底にあるのではない。そしてこの現象は、神をあらわす贈り物として、また歴史は、神をうしなった人間をキリストにあって呼びもどすものとして、理解される。このことがニヒリズムに陥った近代西洋の思想を復活させる方法だとミルバンクは論じる。


ラディカル・オーソドクシーに関係するエントリー

2013-6-17 「グラハム・ワードとポスト・モダンなカール・バルト」

2011-5-19 「神と存在」


Radical Orthodoxy: A New Theology (Routledge Radical Orthodoxy)

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