ホッブスと救い

Roberto Farneti, "Hobbes on Salvation" in The Cambridge Companion to Hobbes's Leviathan, edited by Patricia Springborg (Cambridge University Press, 2007), 291-308.


トマス・ホッブスと「救い」に、どのような関係があるのだろうか。現代においてホッブスを語るとき、おおかた、彼の市民法や社会契約論といった概念に重点がおかれる。そして、それらの概念は、中世の宗教的な象徴世界から世俗的な近代への移行という歴史観のなかで語られることが多いのではないだろうか。Farnetiの論文は、そのような「現代的」なホッブス理解を、ホッブス自身の17世紀の思想的文脈のなかで修正していこうという試みである。


ホッブスの思想的背景のひとつに、人文主義がある。これはヒューマニズムとよばれるものだが、現代における世俗的なヒューマニズムではなく、パウル・オスカー・クリステラーの語るような「キリスト教的人文主義」である。クリスチャン・ヒューマニズムとは、聖書をよみ砕き平易なことばに置き換えていくことによって、聖書の中心的な意味を理解していくプロジェクトである。なかでも、エラスムスの影響を受け、リプシウス、スカリゲルの流れをくんだ当時最高の人文教育を受けたフーゴー・グローティウスの聖書注釈に、ホッブスは多大な影響を受けている。


また、人文主義の伝統と深く関係をもちつつも、平行して発展していった思想的系譜に宗教改革がある。宗教改革思想の中心には、「人はいかにして救われるか」という問いがあった。特にルター以降、新約聖書のパウロ理解を通して、この問いに満足のいく答えをだす試みが続けられた。ゆえに、人文主義の方法論を用いて、聖書、とくにパウロ書簡を読み解くということは、「救い」の定義をすることでもあったわけだ。


ホッブスも例外ではなかった。『リヴァイアサン』の焦点の一つに「救い」の問題があり、ホッブスの政治神学から「救い」を切り離して考えることは不可能である、と著者は語る。ホッブスによると現在の世は、キリストの再来と体の復活の前の時代であり、地上に神の臨在はない。また、この時代には、救いを可能にする律法もない。律法によると人間は不完全な存在であり、律法を忠実に施行することは不可能である。聖書の内容を信じることはできるが、そこに書かれた本当の意味を「知る」ことが出来ないゆえ、律法を守ることによって人は救われないという訳である。ホッブスによると、それゆえ救いは律法にではなく、キリストを信じる信仰によって開かれている。これはパウロ書簡、特にローマ書の教えの通りであり、ルターなどの宗教改革者たちの思想に通ずるものがある。しかし問題は、ホッブスの意味する「キリストを信じる信仰」にある。


宗教改革以降、議論が絶えなかった神学的問題のひとつに、「信仰」と「行い」の関係がある。ルターが示した「信仰義認」という教えは、ややもすると道徳的行為をないがしろにする可能性があった。この信仰と行いのパラドックスに、それぞれのセクトは独自の答えを出してきた。ホッブスは、キリストを信じる信仰には、神への行いは一切含まれていないと論じる。聖書の意味を確実に知る方法がないこの時代において、神が人間にもとめる本当の行いを知ることはできない。ゆえに、この時代には為政者があたえられており、この為政者の意志を忠実に行うことが「キリストを信じる」ということだとホッブスは論じている。


キリスト教の思想的枠組みから遠い現代のわたしたちからすると、荒唐無稽な議論に聞こえなくもないが、ホッブスの真の意図は、国家の法以外の一切の法を除去することにあった。どういうことか。一方で自然法の概念が革命思想に利用され、また、他方で神の意志を一切の媒介者を通さず理解したと公言する熱狂主義者たちが国家反逆を正当化する市民戦争という政情の中で、ホッブスの「神学的」政治哲学はひとつの有益なオルタナティブを示していたのではないだろうか。神の意志を自然法や熱狂的な啓示の中に見出す可能性を否定し、国家為政者の意志の中にキリストへの信仰の具体的な形を見出していくことは、国家主義の中に一切の普遍性を収斂していく近代政治思想の始まりを意味している。ただ、この近代の始まりがどっぷりと神学的枠組みのなかにつかっている事実を認めなければならないが...


ホッブスの政治思想に影響を受けたとされているスピノザもキリストを語っており、ある意味スピノザの政治神学の中心にもキリストを見出すことができる。しかし、スピノザにとり理性は健全に機能しており、理性を通して人は「慈悲」と「正義」という徳を実行することが、聖書の中心的な教えだということを理解することができる。そのためには、正しい方法論が必要であり、その方法論は理性的に理解されなくてはならない。スピノザのように、真の意味で理性的な可能性を政治に見出すとき、ホッブス的な近代政治の危険性を回避する道が現れるのかもしれない。Farnetiの論文はスピノザの政治哲学に言及している訳ではないので、ホッブスとスピノザの政治哲学の比較は、またの機会にでも試みたい。


The Cambridge Companion to Hobbes's Leviathan (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Hobbes's Leviathan (Cambridge Companions to Philosophy)