ジュディス・バトラーと人文教育の危機

プリンストン大学で、今日、明日開かれる The Humanities in the Public Sphere Symposium というカンファレンスのプレナリースピーカーとしてジュディス・バトラーが講演した。彼女は現代思想、フェミニズム、クィア理論などの分野で活躍している。日本でも、2006年に『現代思想』で特集が組まれたこともあるので、知る人は多いはず。


講演の内容は、現代における人文教育の危機についてであった。アメリカの地方・中央政府の予算が削られる中、人文系の学科はそのなかでも削減率が極めて高い。彼女が教えるUCバークリーでも教員のペイカットや博士課程の合格者数の半減(アメリカの大学院ではグラントがでるため)があり、他の大学でもアフリカ史やラテン・アメリカ史の教員の就職率がそれぞれ62%、43%下がるなど、大きな影響をあたえている。これはアメリカだけの現象ではなく、イギリスのある大学では哲学科が廃止されるというありえない事態に発展している。


そのような状況のなかで人文主義はどうあるべきなのか、バトラーは問う。人文教育を受けることによって社会的な地位向上につながると唱えるのか。人文教育を受けることによってよい市民として民主主義の根幹となることができると唱えるのか。どのような利点があっても、グローバル化された現代経済に受け入れられるようなものが人文教育の本質ではないと、彼女は語る。


社会に役立つ人材を教育するのが人文主義ではないのなら、何のために人文教育は存在しているのか。人文教育の本質は、既成の価値観や規範に疑問を投げかけ、クリティカルに向き合っていくことにあるとバトラーは語る。すべてを数値化して、市場の原理に投げ込んでいく、その価値自体を疑問視することが、人文教育の存在意義である、と。ゆえに政治的な姿勢を取らざるを得ないし、つねに体制の隅か、外に存在していかなければならない。


バトラーの話を聴いていて大きな疑問が生まれた。歴史的に見て、彼女が賞賛する人文教育のあり方はどの時代に生まれたものなのか。人文主義の歴史は古く、古代までさかのぼるが、近代においてはルネサンス時代に興隆したヒューマニズムがよい例であろう。大学に広まった人文主義は、確かにある意味政治的にラディカルなものをもっていたし、宗教改革の引き金の一つになったことは否定できない。しかし同時に為政者の助言者や官僚として、体制を盤石にする役割もになった。


18、19世紀ドイツの人文主義も、国家に携わる人々の教育手段として発展した。ギムナジウムや大学教育はビルドゥングといわれ「人間を形成する」ものとみなされ、体制に忠実な人間教育におおいに役立った。もちろん、そののなかからバトラーの認めるような思想家たちが現出したのは事実ではあるが、かならずしもそれは教育システムの目的にそぐうものではなかった。


アメリカの20世紀初頭のリベラル・アーツ教育も、アメリカという民主国家を支える市民を形成するために構築されたものである。第二次世界大戦前に大学にいくことのできたエリートは人文教育をうけ、様々な産業を牽引していきながらも民主主義を理解し、公共善を社会に賦与することが求められた。これも既成の価値であり、その価値の根幹に疑問を呈するような人文教育は、存在していたとしても奨励されなかっただろう。


では、バトラーの語る人文主義の理想は絵に描いた餅なのだろうか。この人文教育の形態は、実際に60年代、70年代にアメリカに存在したものである。既成の価値に対して懐疑的にのぞみ、政治的にもラディカルな立場をとるいわゆる新左翼の動きがこれにあたる。アメリカでは60年代の新左翼の流れが、70年代のヒッピーやフェミニズムの流れを生み出し、反主流派的なオルタナティブなアンダーグランドカルチャーを創出していった。


他者に対しての寛容な精神や、様々な文化に対して開かれている多文化主義、市民権運動、また、バトラー自身が取り組んで来た女性の権利向上やゲイ・ホモセクシャルの立場改善など、多くのすばらしいものを生み出して来たのは事実である。反戦運動や反核運動などもこの流れのなかにある。同時に、この批判的人文教育が育まれて来た土壌が当時の世界を経済・政治・軍事的に牛耳ってきた米国だということも否定できない事実である。政治経済的な余剰がこの人文教育を可能にする条件を提供したといってもよいのかもしれない。


バトラーの人文教育の考え方は、一面的である。確かに既存の価値を疑ってかかることは必要なことだが、人文教育はそれだけではない。社会の形態が変わり、IT革命が起こり、ソーシャルネットワークが人間の交わりの形をかえている今こそ、その社会をやみくもに否定・批判するだけではなくよりいっそう豊かにしていく手段としての人文教育が考えられるべきなのではないだろうか。


いくつかの例をあげるとすれば、よりよいコンテンツをつくるためにはよい人文教育が役に立つだろう。PCやスマートフォンなどの性能がこれまでのような革命的な進化をしつづけるとは思いがたい。技術的な向上はあるだろうが、もっともっと必要になってくるのはコンテンツだろう。よいコンテンツは技術的な問題ではない。それを作り出していく創造的な発想やインスピレーションを人文教育は与えることができる。


また、コミュニケーションスキルを上げるのにも人文教育は役に立つ。異なった時代と文化の書籍や美術、音楽を理解するには開かれたあたまと注意深く聞く耳が必要である。書かれたものを深く理解することは、他者を理解するのに役立たない訳がない。読んだものや見たものについて、考察をふかめ、それを他人に伝えるために言葉にしていくこと、これもまた意思伝達に役立つだろう。語彙を増やし、観点を増やすことによって、より深く、より広く人とコミュニケーションをとることができる。


最後に、倫理・政治的な成熟にも人文教育は欠かせない。市民として他者とともにいきていくこととはどういうことなのか。社会人として働き、いきていくこととはどういうことなのか。毎日でなくとも、問うときがくるはずだ。そのようなときに思考停止に陥り、今まで通り消費をし、飲み食いをつづけるのではなく、幸せな人生とは、という問いにとりくむ材料を、まともな人文教育は与えるべきである。また、社会の一員として、まわりの人々とともによりよい社会を作り出してくのにも人文教育は役に立つだろう。ツイッターやFBがアラブに春をもたらしても、そのあとにつくられるべき社会・政治は古い本との深い対話から生まれてくるのではないだろうか。


人文教育には可能性がある。批判のみならず、建設的にいま住む社会をより善くしていくことが、人文教育にはできる、と私は信じている。