偶有性 (accidentia) と様態 (modus)

Calvin G. Normore, “Accidents and Modes” in The Cambridge History of Medieval Philosophy (Cambridge: Cambridge University, 2010), 674-685.


アリストテレスの『カテゴリー論』のなかには、名詞と形容詞を分類する「実体」「分量」「性質」「関係」「場所」「時間」「位置」「所有」「能動」「受動」という10のカテゴリーがでていくるのは有名だろう。この中の「実体」は更に分類可能で、「この人」や「この動物」のような個別的なものを指す実体を「第一実体」、ものの種類をあらわす一般的な実体を「第二実体」として分けている。ものについていうことのできる実体以外の9のカテゴリーをひっくるめて「偶有性」(accidentia) と、アリストテレス以降、呼ばれてきた。同時に、この三つの区分は、二つの原理の有無によってわけられている。一つは、述語になりうるか、もう一つは、ものの「うち」に存在しているか、である。


このブログを書いている私を例をつかってみよう。「ヨシユキ」という個体(第一実体)は、他の述語になり得ないし、「人」というもののうちに存在していいない。「動物」(第二実体)は述語になりうるし、「理性的動物」すなわち「人」というもののうちに存在している。そして、「米国東海岸」や「70キログラム」という「偶有性」は、述語になりうるが、「人」というもののうちには存在しない、というわけである。問題は、『カテゴリー論』のなかでアリストテレスは、この三つ目のものの「うち」が、「あるものの一部ではない」ということ以外きちんと説明していないということだ。つまり、もの自体のうちにある「分量」「性質」「位置」とそれ以外の6つのカテゴリーが同じ意味で「うち」にあるのかないのか、という疑問が残されてしまった。アリストテレスはこの問いに対しての解答を、『自然学』と『形而上学』のなかで与えているのだが、中世西欧には12世紀まで、ボエティウスの注解のついた『カテゴリー論』とアウグスチヌスの作品だと思われていた『十のカテゴリーについて』(De decem categoriae) しか存在していなかったので、独自の解答を多くの神学・哲学者たちは出して来た。


前期中世においては、Garlandus やアベラール、また彼の師であった Roscelin が、全ての偶有性のカテゴリーは同様にものを修飾するものとして理解した。つまり、そのもの自体に付属されている「分量」や「性質」と、環境や他のものとの関係性である「場所」や「時間」もまったく同様に非実体的に、すなわち述語的に使用されていると理解した。後期中世に入ると、アリストテレスの『自然学』や『形而上学』、またアラビア哲学・神学の影響から、偶有性の問題はますます複雑になっていった。


この時代を代表するトマス・アクィナスは、哲学的にはアリストテレス的な理解を示し、基体 (subjectum) とそのうちに存在する偶有性を分けることはできないと論じた。しかし、神学的には、これは可能であり、現に聖餐式を執り行う時、パンと葡萄酒は破壊されキリストの体が現れる、とトマスは論じている。パンと葡萄酒の「性質」は、キリストの体の偶有性としては残らない。では、どのようにしてこの偶有性は残り続けるのか。トマスにとって偶有性とは、偶有性の形相であり、形相は個物、普遍のどちらでもなかった。形相が個物化されるのは、質量を通してであったが、質量それ自体は個物ではなかった。トマスの複雑な体系の中では、まず質量がその分量によって個物化され、その個物化された質量と形相があわさるときに、「もの」があらわれる。このことから、聖餐式のパンと葡萄酒の「分量」をのぞいた8つの偶有性は、それらの存在を可能にしていた基体としての実体がキリストに変化した後、「分量」を基体として存在し続けることが可能になる。実体をなくした「分量」は、神の超自然の業を原因として存在することになる。


ここで大きな議論になったのが、神によって独立した存在を保持される偶有性は、はたしてそれ自体の存在を持つことができるのか、という問いである。トマスやトミストたちはそれぞれの偶有性は独立した存在を持つと論じた。つまり「ソクラテスは白い」といったとき、「ソクラテス」と「白」それぞれは乖離されないが、独立した存在をもつということだ。独立した存在とはいっても、「白」はあくまで「ソクラテス」のうちに存在しているので、二つの存在の関係は類似的(アナロジカル)といわれる。


それに対して、ゲントのアンリ、ペトルス・ヨハネス・オリヴィ、ジャン・ビュリダンやオッカムは、二つの独立した存在ではなく、「ソクラテスは白い」という文は「ソクラテス」という存在以外には一切言及していないと論じる。この後者の理解が中世末期には一般的に受け入れられていた。しかし、この理解では、聖餐式での神の業を説明することができなくなる。というのも、パンと葡萄酒がキリストの体に変わる時、どのようにしてパンと葡萄酒はその形や色という偶有性を保つことができるのだろうか。ゲントのアンリは、偶有性のなかでも「分量」と「性質」はそれ自身個別のものでありゆえ、聖餐式のなかで基体が変化したとしても矛盾は生じないと論じた。他方、ペトルス・ヨハネス・オリヴィ、スコトゥス、オッカムは、パンと葡萄酒の偶有性は聖変化の後、どの基体にも属さずに、ただ神の力ゆえ、存在し続けると考えた。この状態の偶有性はすべて実体と同様の、すなわち単一義な存在をもつと論じられた。


しかしもし実体とその他の偶有性が神の力によって保持され、同様の存在を持つとしたらどのようにして両者を区別すればよいのだろうか。この問いは、神が人になるという受肉の神学的理解において大きな問題になった。キリスト教的質量形相論においては、人の体と魂を破壊すれば、人は破壊される。しかし、キリストの人と魂を破壊しても、三位一体の御子としての第二位格は破壊されない。ではキリストとキリストの人間性の関係はどのようなものなのか。スコトゥスはその二つを、実体と性質のようなものだと理解した。オッカムの理解によると、キリストの体と魂は、基体としての第二位格に組み入れられることになる。結果として、実体は神の力によって偶有性として存在することが可能になる。


このオッカムの理解はますます実体と偶有性の区別を困難にした。どのように実体と偶有性を識別すればよいのだろうか。トマスによると、偶有性は自然に実体に属するし、実体は自然に他のものに属することはない。神は無論この区別を超越することができる。しかし、これは自然と超自然の境界線を明確に理解していなくてはならず、神の力から自然を理解しようとするアプローチには全くもって適していない。


オッカムによって不明瞭になった実体と偶有性の関係を、自然のはたらきと神の力を同一視するデカルトは、一気に逸脱しようとする。オッカムが理解する実体から独立した偶有性は、実体と偶有性の関係を必然的なものではなく、偶然のものとする危険がある。またそこに神の介在があるゆえ、確実な自然の理解が不可能になる。デカルトは、多種多様な性質を実体の様態として理解することによって、超自然の自然への偶発的な介入と実体と偶有性の偶発的な関係を退けることに成功する。つまり、火かき棒が熱いのは、火かき棒の様態が変化したことに起因しており、火かき棒に「熱い」という性質が加えられたからではない、ということになる。思惟においても同様のことがいえる。デカルト的思考では、マンハッタンについて考えることとウィーンについて考えることの違いは、思惟の様態の変化だけであり、オッカムにとってはそれぞれの思惟にはそれぞれの「もの」が存在していると理解する。この議論は現代でも続いていると、著者である Normore は論を閉じる。


The Cambridge History of Medieval Philosophy 2 Volume Boxed Set

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