アリストテレスとヘーゲルの間にあるスピノザのコナトゥスの問題

スピノザ哲学の根幹に、コナトゥスという概念があるのはよく知られている。コナトゥスとは、すべての存在が自己を肯定して、自己を確立していくプロセスをさしている。どのような存在にもコナトゥスは備わっており、コナトゥスぬきには、個々の存在を理解することはできない。植物が種から芽を出し、やがて花を咲かせ、そして実をならせるプロセスには、コナトゥスが働いている。また、人間が誕生し、幼児から成長をし、成人していくプロセスにもこれが働いている。


コナトゥスを考える上で、注意すべき点は、アリストテレスの形相論と混同されてはならないことである。表面上、コナトゥスと形相という二つの概念は、似ているようにも見える。ものが自己を肯定し、その本質を現出させていく過程は、ものにそなわった形相の力である。しかし、この二つの概念が大きく異なるのは、背後にある宇宙論の違いである。スピノザ哲学のなかで、コナトゥスはあくまでも物理的な動作として理解されなくてはならない。あらゆる存在は常に動いており、すべての存在の根底にあるこの物理的法則こそが、コナトゥスとして理解される。


スピノザの思想において、あるものを他のものから隔てる原理は、物体の運動原理にある。つまり、ある物体の運動または静止の比率(ratio motus et quietis)が、ものの個体性を確立しているのだ。同様の運動と静止の比率を持つものは、同一のものとみなされ、異なる比率をもつものは、異なるものと見なされる。アリストテレスの思想の枠内でも、同様のことをいうことができるが、大きな違いは、スピノザの思想には、厳密な個体の輪郭が存在しないということである。


つまり、スピノザは、すべてのものを唯一なる実体の様態と見なしているゆえ、究極的にはあらゆる様態は、ひとつのものとして見なすことができる。個体と個体を隔てる運動と静止の比率も、常に不動的に保たれるのではなく、ある一定の条件下において、そうであるだけであって、ある個体が他の個体と同化して、ひとつの運動と静止の比率を構築することもあるだろうし、また、ひとつの個体のうちに異なった運動と静止の比率を包摂することによって、ふたつの異なった個体を生み出すこともある。ゆえに、個体性という概念は、スピノザにとって、限りなくあいまいなものであるということができる。


際限ない運動と静止の比率の変数によって生み出される多種多様な個体がある一方、同時に、すべての運動と静止の根底にあり、あらゆる存在を自己原因的に作動している統一的な要因がある。これがコナトゥスである。ものと概念の総体である実体の大いなる運動が、コナトゥスであり、コナトゥスによって物体が作動され、異なった個体を生み出していく。個々の物体のコナトゥスを知っていくことが、あるものを理解するこということになり、このことから、スピノザの個体理解は、つねに物理学的であるということができる。


このように、あくまで物理的にスピノザのコナトゥスをとらえるとき、スピノザ批判の先鋒にあるコナトゥスの一元的理解に歯止めをかけることができる。コナトゥスの一元的理解とは、ヘーゲルによるスピノザ批判の一翼を担ったものである。ヘーゲルは、スピノザ哲学が否定性をコナトゥスの原理から排除していると理解した。つまり、スピノザのコナトゥスには、限りない肯定しかなく、ものとものの闘争をいっさい無視しているということである。ヘーゲルの思想の根底にある否定の概念とは、和解することのできないもととものの闘争であり、主人と奴隷の弁証法にみられるような根本的なひずみである。このひずみが事象の根底にあり、統一概念の成立を常に妨げる。


ヘーゲルにとって、スピノザ哲学は、この根本的なものともののひずみを無視した楽天的な思想だとみなされた。しかし、はたしてそうであろうか。いままでみてきたように、スピノザのコナトゥスの概念は、個々の物体の運動をあらわしている。また、スピノザの基本的な運動法則は、デカルトに習い、個々の運動の継続をあらわしている。ゆえに、運動の静止は、他のものによってこの運動が妨げられているときに起きる。つまり、運動の静止は、他者の媒介による自己運動の妨害によって起きるという訳だ。このことから、スピノザのコナトゥスの概念は、ヘーゲルが記しているように、個々の物体の闘争を無視した楽天的な思想だということはできない。


スピノザ哲学において、ものの運動の全体像をみるとき、コナトゥスの概念は、ヘーゲルのいうように否定を欠いた一元的な楽観論にもみえないことはない。つまり、全体がコナトゥスのポジティブな運動原理によって突き動かされ、自己保全を成し遂げていく。しかし、厳密には、コナトゥスの全体像は、限りなく細分化され、無限に広がる個体のコナトゥス同士の競り合いから成立しており、個々のレベルでは、闘争が原理として存在する。同時に、この闘争は、いくつかの個体をあわせた共闘に昇華させることもでき、単純な意味での、否定性と肯定性といった二元論で分けることのできない思想的精緻さをもっている。