マイモニデスとスピノザの神

Carlos Fraenkel, “Maimonides’ God and Spinoza’s Deus sive Natura,” Journal of the History of Philosophy, 44.2 (2006): 169-215.
 

 フランケルによると、マイモニデスとスピノザの神の概念には、ウォルフソンが記すほどの差異はないという。ウォルフソンは、スピノザによって、フィロンの系譜、つまり神学に仕える哲学という理解は、終焉を迎えたとした。これに対して、フランケルは、スピノザの哲学とアリストテレスの伝統、とくにマイモニデスを比較して、両者の類似性を明確にしていく。スピノザには、延長を神の属性とみとめるラディカルな概念があったが、これを除けば、アリストテレスの神の概念とそれほど相違しない。これがフランケルの主張である。


 興味深い議論ではあるが、問題もある。ウォルフソンが理解したフィロンの系譜とは、神学に仕える哲学というものであった。この論文でフランケルが提示するマイモニデスの神は、あくまでラディカルなアリストテレス主義の系譜のなかで理解できるものである。つまり、啓示との整合性を必要としない、自然主義的な、または、アフロディシアスのアレクサンドロスらの流れを汲んだものである。


 スピノザの神概念の意義を明らかにするアプローチとしては、フランケルのものは不十分である。むしろ、マイモニデスとスピノザの思想の直接的な比較ではなく、スピノザを当時の神学思想的な文脈、とくにカルヴァン派やオランダ・デカルト主義との論争のなかにおき、自然法則や啓示概念といった側面から分析することが必要ではないだろうか。ウォルフソンもアプローチとしては、フランケルのものに近いが、結論のみを言えば、より的確であろう。


補遺
ちなみに、ウォルフソンの古典的傑作『スピノザの哲学』はインターネット・アーカイブからダウンロード可能。リンクはこちら