スコトゥス論文

スコトゥスの単一議論(univocus)について書いている。今日はDenys TurnerのFaith, Reason, and the Existence of God (Cambridge University Press, 2004)を読んでいた。Richard Crossのスコトゥス理解に対して、スコトゥスの議論はトマスには適応できないと論じている。

Turner本の基本路線は、Radical Orthodoxy(John Milbank, Catherine Pickston, Graham Ward)の新プラトン主義的なトマス理解ではなく、理性と自然神学を重んじる、古き良きトマス理解の提唱にある。

しかし、トマスの類推(analogia)の問題点は、スコトゥスの議論に見つけられるのではなく、トマスの神学と1277年の譴責 (Condemnation of 1277)に見いだされなくてはならない。

トマスの類推は、神の本質をあまりにも被造物に近づけすぎたことに問題がある。神の善(bonum)、知(sophia)、義(iustitia)は、人間の言葉で表すことができないし、完全なる善は神の創造にのみ適応される。しかし、神の創造は神の本質と必然的な関係をもっているので、完全なる善、知、義は、神の本質のうちに、神の単性(simplicitas)として存在している。ゆえに、完全なる善は被造物にのみ当てはまる言葉だが、神の本質と完全なる善、知、義の間には、類推の関係を見いだすことができる。

この神の本質と被造物との必然的な関係が、タンピエ司教によって、神を被造物に縛り付けるとして、譴責をうけることになる。ゆえに、スコトゥスが批判する類推は、トマスのものではなく、ゲントのヘンリクゥスであった。すると、Turnerが指摘するべき問題点は、スコトゥスの考える神の絶対力 (potentia absoluta)であって、彼の類推批判ではないはずだ。