Ikiru by Akira Kurosawa

『生きる』 黒澤明 1952年

この映画には、いまをどう生きるかといった様な道徳的な問いかけで、片付けることの出来ない壮大な美と物語がある。シンプルにいえば、人間と創造である。人は生きる意味のない、日々変わることのない永遠性の中にいきている。変化のない永遠性の先には死という永遠性が残されている。日常の中には死は存在せず、死の存在しない日常性の中には失望も存在しない。


日常のニヒリズムの中から、真のニヒリズムへ、死の宣告は人を突き落とす。意味の欠落を理解した人間は、そのときはじめて生のかけらを理解する。 しかし、それはかけらでしかなく、実は生の居場所さえも日常性の中に埋没させられていること気付く。


生はどこにあるのか。どこに隠されているのか。ある人はそれを快楽の中に見つけようとする。快楽にはニヒリズムを打ち破る可能性が秘められているが、その可能性は快楽自体にではなく、その快楽が生み出すものにある。つまり生命である。快楽は生命を指し示し、生命はニヒリズムを打ち砕く。


黒澤はこの生命を創造に見いだした。世に蔓延するカオスからラチオ、すなわち道理を与える創造に。余命六ヶ月の胃癌を患う主人公は、生命を与える創造を見いだすことに成功する。長屋の脇にある公園予定地を視察する主人公が見たものは、混沌とした闇である。その闇は大いなる水の上にあった。最終的に、主人公は現出するカオスに秩序を与えることに成功する。


主人公が死ぬ数時間前にその公園のブランコにのるシーンを思い出してもらいたい。黒澤明の天分の才はこのシーンに収斂されていると言っても過言ではない。つまり、混沌としていたカオスが主人公によって、四角(ジャングルジム)と三角(ブランコの支柱)の間を前後するブランコの動きに変えられる。この幾何学的組み合わせはピタゴラスの思い描いたラチオである。混沌に秩序が与えられ、その中に主人公は永遠のいのちを見いだしたのであろう。


しかし絶え間なく続くカオスの前に自分の手が創り出す、いや人間の創り出す秩序が救いを与えるのだろうか。日はまた昇り、新しく創り出されたラチオはいずれカオスに変わっていく。そして日はまた沈む。この終わることのないカオスに終止符をうつものはあるのだろうか。意味の欠落を最終的に打ち砕くものはあるのだろうか。これが人間の歩みなのだろうか。希望は見つかるのだろうか。