スコトゥスの単一議論

なぜスコトゥスの単一議論についてかくのか。デリダ、ドゥルーズ、バドゥがスコトゥスについて書いているのは、ひとえにハイデガーが学位論文でスコトゥスをとりあげ、ある意味ハイデガー以降の存在論に大きく影響を及ぼしているのが一つ。その影響をうけ、神学者の中でもJohn Milbank が、Theology and Social Theory (1990)にみられるように、Radical Orthodoxyを確立する上で、乗り越えなければいけなかった神学であるからだ。

しかし、上記のフランス現代思想やローティやデイビッドソンのプラグマティズム以外にも、もう一度問い直されなくてはならない問題として、啓蒙思想があるのではないだろうか。そう、啓蒙思想の形而上学を構築したデカルトの存在論も、スコトゥスの単一議論に追うところが大きい。勿論これ自体は目新しいことではなく、コイレもジルソンも多少なりとも言及しているところだが、歴史文脈的に理解されてこなかったのが現状である。

歴史の過渡期にあたり、神学の分野でも啓蒙思想の問い直しが必要である。17世紀にいったいなにがおこり、その現実といかに対峙していくべきなのか。乗り越えるべきものなのか。 それとも、啓蒙思想の普遍性にあらたな鍵を見いだすことができるのか。そのような大きな問いには、中世の文献学的な地道な作業が必要であろう。

John Duns Scotus, Doctoris Subtilis Et Mariani Ioannis Duns Scoti Ordinis Fratrum Minorum Opera Omnia. Civitas Vaticana: Typis Polyglottis Vaticanis, 1950.

単一議論はvol.IIIとIVに見つけることができる。