初期アメリカ学会、ピューリタン学会でのスピノザとスピノザ主義に関する報告

本日は初期アメリカ学会の増井先生とピューリタン学会の森本先生のお招きで、上智のアメリカ・カナダ研究所で行われる研究会で報告いたしました。タイトルは、「十七世紀後半のオランダにおける神学・政治論--改革派の内部抗争とスピノザ主義--」となっております。発表の主旨は次のとおりです。

本発表は、一七世紀後半のオランダでのスピノザを巡った論争に注目することによって、初期近代におけるキリスト教神学と自然哲学、さらに政治との関係に光をあてていく。第一節では、オランダにおけるデカルト主義の興隆とその流れのなかでのスピノザの急進的な聖書と自然に関する議論を検証する。つづく第二節では、デカルト主義に反対する立場からスピノザを徹底的に批判したペトルゥス・ファン・マストリヒトの議論、またウィティキウスの遺稿『スピノザ反駁』に注目しながら、「スピノザ主義者」というレッテルがもたらした意義をみていこう。最後に短くではあるが、イングランドやニューイングランドにおけるスピノザ主義への対応を確認する。

今回は初期アメリカ学会・ピューリタン学会のイベントということで、スピノザ主義のイングランド・ニューイングランドにおける反応というところまで論じてみました。もちろんまだまだ荒削りですが、非常に興味深いマテリアルが埋まっているのではないでしょうか。イングランド・ニューイングランドにおけるスピノザの受容・反応に関する文献には、一部ですが次のようなものがあります。

  • Georg Bohrman, “Spinoza in England,” in Spinozas Stellung zur Religion: Eine Untersuchung auf der Grundlage des theologisch-politischen Traktats (Giessen: Alfred Töpelmann 1914), 59-81.
  • T.J. De Boer, “Spinoza in England,” Tijdschrift voor Wijsbegeerte 10 (1916): 331-36.
  • Rosalie Colie, “Spinoza in England, 1665-1730,” Proceedings of the American Philosophical Society 107.3 (1963): 183-219.
  • Rosalie L. Colie, “Spinoza and the Early English Deists,” Journal of the History of Ideas 20.1 (1959): 23-46.
  • Sarah Hutton, “Reason and Revelation in the Cambridge Platonists, and their Reception of Spinoza,” in Spinoza in der Frühzeit seiner Religiösen Wirkung, ed. K. Gründer and W. Schmidt-Biggeman, Wolfenbütteler Studien zur Aufklärung, 12 (1984): 181-199.
  • J.J.V.M. de Vet, “Learned Periodicals from the Dutch Republic and the Early Debate on Spinoza in England,” in Miscellanea Anglo-Belgica, Papers of the Annual Symposium Held on 21 November 1986 (Leiden: Werkgroep Engels-Nederlandse Betrekkiger and the Sir Thomas Brone Institute, 1987), 27-39.
  • Stuart Brown, “Theological politics and the Reception of Spinoza in the early English Enlightenment,” Studia Spinozana 9 (1993): 181-199.
  • Luisa Simonutti, “Spinoza and the English Thinkers: Criticism on Prophecies and Miracles: Blount, Gildon, Earbery,” in Disguised and overt Spinozism around 1700, ed. Wiep van Bunge and W. Kelver (Leiden: Brill, 1996), 191-211.
  • Luisa Simonutti, “Boyle and Spinoza: Natural Philosophy and Rational Religion,” in Religion, Reason and Nature in Early Modern Europe, ed. Robert Crocker (Dordrecht: Springer, 2001), 117-138.
  • Sarah Rivett, The Science of the Soul in Colonial New England (Chapel Hill: University of North Carolina, 2011).
  • Reiner Smolinski, “Authority and Interpretation: Cotton Mather’s Response to the European Spinozists,” in Shaping the Stuart World, 1603-1714: The Atlantic Connection, ed. Allan I Macinnes and Arthur H. Williamson (Leiden: Brill, 2006), 175-203.

また、発表の結論部も引用しておきます。

 本発表では、主にオランダに焦点をおきつつ、十七世紀後半の神学・政治的な文脈におけるスピノザとスピノザの思想を明らかにしてきた。ここからみえてくるのは、難解な思想を幾何学的に叙述するといった哲学者スピノザ、あるいはニーチェやドゥルーズに連なる現代思想の創始者といったイメージではない。むしろ十七世紀後半において支配的であった神学・政治勢力へのアンチ・テーゼ、すなわち伝統的なキリスト教神学の根幹にある啓示や奇跡を不可能にする思想、そしてオランダ社会における教会権力の弱体化を試みたスピノザ像が浮かび上がってきたのではないだろうか。このスピノザのようなラディカリズムは、オランダ国内では正統主義陣営、そしてデカルト主義陣営から徹底的な批判を招くこととなった。また、スピノザ主義の発展はオランダ国内に留まることなく、十七世紀後半から十八世紀にかけて、今回短くみたイングランド、ニューイングランドのみならず、フランスやドイツ、そしてイタリアへも普及していくことになる。
 時代遅れとなりつつあったアリストテレス哲学を擁する正統主義者たちは、天動説への拘泥からもわかるように、このようなラディカリズムの普及に対応しきれていない。また、神学的に穏健なデカルト主義者たちでさえも、ウィティキウスの例が顕著に表しているように、スピノザの思想との近似性から、徹底的な批判を突きつけることができなかった。それに対して、イングランド、ニューイングランドの例で少しみたように、キリスト教神学とも親和性のある王立協会員やニュートンらの物理神学(physico-theology)は、自然哲学の発展を止めることなく、また政治体制に脅威を与えることなく、スピノザや他のラディカリズムに対する最も効果的な批判のひとつとなりえたのである。さらに、マザーのように神の体験・経験を前面に押し出すことによって、スピノザ主義による奇跡の否定や聖書の高等批評を乗り越えていくことができると考えたのではないだろうか。
 今後の研究の課題は、イングランドで発展したスピノザ主義に対抗する思想が、どのようにオランダを始めとする大陸諸国へ再導入されていったかを詳しく検証していくことである。もちろん、そのような研究は、今回のように、それぞれのディシプリンに措定されているナショナルな垣根を超えていくことではじめて可能になるものなのであろう。


ケネス・アッポルド教授来日


 6月5日から21日まで立教大学招聘研究員として指導教官(Doktorvater)のケネス・アッポルド教授が来日した。2013年の5月に学位授与のためにプリンストンを訪れて以来の再会となるので、実に丸2年ぶりであった。今回の滞在は、立教大学文学部長の西原廉太先生が受入教員となり実現したものである。ちなみに西原先生とアッポルド教授は、ストラスブールのエキュメニカル・センターで同じプロジェクトに関わったこともあり、お二人が「ken-renta」の仲であったのは今回の来日で知ることになる。


 滞在中は、立教大学史学科の学部ゼミと大学院キリスト教研究科院ゼミでの講義二つに加えて、学外でも東京基督教大学とルーテル学院大学・神学校でもチャペルでのメッセージや講義を行っていただいた。また教授の『宗教改革小史』の訳者である徳善義和先生には、市ヶ谷ルーテル教会で初めてお会いすることができた。


 教授の来日の最大の目的である、公開シンポジウム「宗教改革の伝播とトランス・ナショナルな衝撃—宗教改革500周年にむけて」は、20日午後に立教大学で無事開催された。シンポジウムでは教授の講演に加えて、国際基督教大学の那須敬先生、大阪大学の古谷大輔先生、東都医療大学の早川朝子先生、武蔵大学の踊共二先生に発表いただいた。(会の詳細についてはウェブサイトを参照。)想定していたよりも多くの人が訪れてくださり、また議論も深まり、充実した会となったのではないだろうか。本シンポジウムでのアッポルド教授の発表は、後日翻訳・出版される予定である。


 教授滞在中、多くのひとたちに--特に立教大学文学部史学科の小澤実先生にはシンポジウムの開催にあたって--助けられた。心より感謝申し上げたい。

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)



オランダ黄金時代における「自然の書物」とキリスト教神学の枠組み

Eirc Jorink, Reading the Book of Nature in the Dutch Golden Age, 1575-1715. Brill’s Studies in Intellectual History. Vol. 191. Trans. by Peter Mason. Leiden: Brill, 2010.


Reading the Book of Nature in the Dutch Golden Age, 1575-1715 (Brill's Studies in Itellectual History)

Reading the Book of Nature in the Dutch Golden Age, 1575-1715 (Brill's Studies in Itellectual History)


初期近代のオランダは、しばしば近代科学の知的土壌といわれることがある。合理主義的で物質主義的、そして反形而上学的な精神風土のみならず、ステヴィン、ベークマン、デカルト、ホイヘンス、スピノザが活躍したのがオランダであるからだろうか。特に近年では、ジョナサン・イスラエルによる唯物論的に解釈されたスピノザ主義を中心とする「ラディカルな啓蒙主義」というテーゼが、このような初期近代のオランダ像をより強固なものとしている。しかしながらこの既成概念に対して、ホイヘンス研究所(Instituut voor Nederlandse Geschiedenis, ING)のエリック・ヨリンクは『オランダ黄金期における自然の書物、1575-1715年』(2010年)のなかで異なったオランダ像を提示していく。


ヨリンクのテーゼは、黄金期のオランダの知的風土は決して反形而上学的でも物質主義でもなく、むしろ自然は神の啓示の第二の書物と理解されていたというものである。特にネーデルランド改革派教会のもたらしたアウグスティヌス・カルヴァン神学の影響は強く、自然はそれ自身で理解されるのではなく、聖書に準ずる神の啓示の手段としてみられていた。また、「自然の書物」liber naturaeという概念は、いわゆる「近代的」なパラケルススやモンテーニュやガリレオにも使われていたが、オランダにおけるこの概念は改革派神学(あるいはカルヴァン主義)の枠組みのなかでみるのがふさわしいとされる。パラケルススやモンテーニュやガリレオはあくまで外的な啓示に頼ることなく、自然自体の理解を「自然の書物」と呼んでいるからである。


聖書解釈の伝統に加えて、オランダ黄金時代にはもうひとつ重要な知的フレームワークがあった。それはアリストテレス、ガレノス、プリニウスといった古典の伝統である。これはヒロ・ヒライが『医学的人文主義と自然哲学』(2011年)のなかで言及していることだが、この時代において自然哲学者は人文主義者であった。それゆえ自然現象は、聖書と古典の枠組みのなかで理解される。いうなれば、現象の観察と古典の解釈はお互いに補完しあうのである。


ヨリンクはもちろんデカルトやスピノザの合理主義の伝統を軽視しているわけではない。ユトレヒトやレイデンでのデカルト主義を巡る論争にみられるように、デカルトの思想は大きな影響をオランダの知的文脈に及ぼした。スピノザも然りである。これはフェルベークやファン・ブンゲらの研究が明らかにしてきたことである。しかしながら十八世紀にはいるとオランダのデカルト主義は、ニュートンの影響を受けた自然神学の伝統に取って変わられる。そして後者は興味深いことに、正統的なカルヴァン主義神学の啓示と自然という二つの神の書物の伝統を保持していくことになるのである。ヨリンクの主張は次のようなものになるだろう。オランダにおける自然理解の発展は、非合理的なものから合理的なものへというものではなく、自然を理解する神学的な枠組みが十六世紀から十八世紀にかけて連綿と続いていたと理解されるべきなのである。では、この黄金時代に何が変化したのか。


本書の核心部である第三章から第六章は、彗星、昆虫、驚嘆、奇事異聞の解釈史が多様な事例とともに描き出されている。ではなぜ彗星や昆虫なのだろうか。当時の神学的な文脈のなかで、これらは神の奇跡的、あるいは超自然的な業の現れとして理解されてきたからである。不変的な自然の法則の下での現象としてではなく、世界を創造した神の栄光が自然現象を通して木漏れ日のように照らされるとでもいえようか。正統派カルヴァン主義者ヴォエティウスが詩篇十九篇の注解で語るように、自然は神の栄光を写し出しており、その栄光への応答として人間は驚嘆(admiratio)をもって神を誉め称える。アウグスティヌスも詩篇四十五篇の注解で同様のことを語った。いずれにせよ、この時代の自然哲学者たちは、聖書の記述を基礎に、アリストテレス、ガレノス、プリニウスらの古典を読み、神を誉め称えていたのである。


では何が変化したのだろうか。ヨリンクが注目するのは人文主義による本文批評の伝統である。十六世紀の宗教改革にも大きな影響を与えたエラスムスに代表される人文主義は、オランダ黄金時代において飛躍的に発展した。リプシウス、スカリゲル、フォシウスといった人文主義者は、古典のテクスト・クリティークの技術を革新的に高めていったのである。それによって古典の権威は相対化されることになり、より自由に自然現象を観察、分析することが可能となった。勁草書房から近刊予定であるグラフトンの『テクストの擁護者たち--近代ヨーロッパにおける人文学の起源--』(原典は1991年)は、カゾボンによる1614年の『ヘルメス文書』への有名な批判に一章を割いている。この批評によってルネサンス期に栄華を極めた『ヘルメス文書』の権威は失墜することになる。


いずれにせよ、人文主義者たちによる原典批評は、異教徒の古典に留まらず、聖書にもおよぶことになった。レイデン大学のヨセフ・スカリゲル(1540-1609)は新約聖書の歴史的な記述に疑問をもつ。彼はこれを公表することはなかったが、その弟子たちはさらにラディカルな本文批評を聖書に加えていく。また、1655年に出版されたラ・ペイレールによる『アダム以前の人間』は、創世記の歴史性に疑問を付した。ついでにいえば、スピノザのラディカルな聖書批判は、その独自性よりもむしろこのオランダ人文主義の伝統のなかに位置づけられるべきであろう。とにかく重要なのは、これらの批判が「自然の書物」の概念の否定につながったのではなく、より自由に直接的に自然現象を神学的な枠組みのなかで解釈することを可能にしたことである。このようにヨリンクは語っている。つまり、ヨリンクの論点は、聖書と古典を批判することによって、合理主義が生まれたのではなく、神学の枠組みは守られつつもより近代的な科学が創発したというものなのである。この枠組みはオランダにおいて十九世紀までゆるやかに守られていく。


最後に短くではあるが、本書をより大きい知的文脈のなかに位置づけてみよう。本書は、研究対象のみならず、方法論をみても、ダストンとパークによる『驚異と自然の秩序 1150-1750年』(1998年)の系譜にある。つまり十六・十七世紀の思想史を、哲学や科学の狭い枠組みの中で理解するのではなく、神学史、科学史、医学史、芸術史、書物史といった広い枠組みのなかで理解していくものである。この手法こそが、先述したアンソニー・グラフトンが広めたといってもよい、インテレクチュアル・ヒストリーの手法なのである。さらに、ヨリンクの著作へのひとつの返答として、各方面から高い評価を受けているサチコ・クスカワの『自然の書物を描く--十六世紀人体解剖学と医学的植物学におけるイメージ・テクスト・議論--』(シカゴ大学、2012年)をあげることができる。興味深いことにヨリンクは研究の課題として、初期近代における医学・自然科学の書物にみられる図像の分析を挙げており、まさにクスカワがその著作をもって答えているといえるのではないだろうか。日本でもヒライ・小澤編『知のミクロコスモス--中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー--』(中央公論新社、2014年)には、菊地原の「ルネサンスにおける架空種族と怪物--ハルトマン・シェーデルの『年代記』から--」が含まれており、今後も注目を集める研究対象であることは間違いない。

十六世紀後半のルター派医学者による宗派化とルネサンス・プラトン主義

Robin B. Barns, “The Prisca Theologia and
 Lutheran Confessional Identity c. 1600: Johannes Jessen and his Zoroaster” in Spatrenaissance-Philosophie in Deutschland 1570-1650: Entwürfe zwischen Humanismus und Konfessionalisierung, okkulten Traditionen und Schulmetaphysik, ed. by Martin Mulsow (2009), 43-55.


十六世紀後半から十七世紀初頭の西洋における神学・哲学思想は、しばしば宗派化(confessionalization)に積極的な正統主義者と、リベラルで宗派の統合を目指す人文主義者という二項対立として理解されることがある。本論文の著者バーンズは、ルター派の医学者ヨハネス・イェセン(1566-1621)の記した『ゾロアスター』の分析を通して、この見解に反論を呈する。イェセンはヴィッテンベルクとライプツィヒで学んだあと、パドゥア大学でフランチェスコ・パトリッツィ(1529–97)に師事した。特に、パトリッツィの古代神学(prisca theologia)に多くの影響を受けている。しかし宗派化に否定的で、コスモポリタンなパトリッツィと違い、イェセンは正統主義的なルター派の枠組みのなかに古代神学を消化していく。


この時代のヴィッテンブルクは、カルヴァン主義に傾倒した選帝侯クリスチャン一世(1587-1591)から、より厳格なルター主義者であったフリードリヒ・ヴィルヘルムへと代替わりしていた。クリスチャンの統治下のヴィッテンベルクには、ジョルダーノ・ブルーノが滞在するなど、宗派の枠がより広く理解されていた。しかしフリードリヒは、カルヴァン派を排除して、正統主義的なルター派による宗派化を推し進めようとする。


そのような神学・政治的な状況の下で、イェセンはフリードリヒに『ゾロアスター』を献呈した。この書物でイェセンは、ルネサンス・プラトン主義とルター派正統主義の調和を試みている。バーンズの提示するひとつの興味深い例は、イェセンの三位一体理解である。イェセンは、流出と熱としての創造主-自然の原理としての御子-世界霊魂としての御霊を想定した。バーンズによると、三位一体を重要視する目的は、当時流行していたポーランドやシレジアの反三位一体主義的な思想に対抗するためだったとされる。また、御子イエスを自然の原理として理解することによって、ルター派的な聖餐論を展開することができるという。当時ルター派とカルヴァン派が、聖餐式におけるキリストの身体の理解を巡って対立していたのはよく知られている。ルター派は、イエスの身体の遍在を主張していたが、カルヴァン派は身体をあくまで天にあるものとして理解していた。イェセンは、イエスを自然の原理として理解することによって、ルター派の見解の正しさを証明しようとする。さらに、イェセンの終末思想も興味深い。イェセンはパトリッツィにならい、自然を永遠のものとして理解していた。しかしこの永遠なる自然は、終末において根本的な変革と浄化をくぐり抜ける。この終末思想は、パトリッツィからは逸脱しているが、当時の預言的なルター派の理解と一致するものである。


最終的にイェセンはプラハへ移り、カレル大学の総長と帝国属の医師となる。1618年以降は、反帝国運動に参加することになり、プロテスタントの大敗北に終わった1620年の白山での戦いののち、翌年ハプスブルクによって処刑された。バーンズによると、最後までイェセンは正統的なルター派の枠組みのなかで独自の思想を発展させたそうである。古代神学とルネサンス・プラトン主義に傾倒しつつも、宗派化を進めた興味深い一例をイェセンの生涯と思想のうちにみることができるのではないだろうか。


マイモニデスとスピノザの神

Carlos Fraenkel, “Maimonides’ God and Spinoza’s Deus sive Natura,” Journal of the History of Philosophy, 44.2 (2006): 169-215.
 

 フランケルによると、マイモニデスとスピノザの神の概念には、ウォルフソンが記すほどの差異はないという。ウォルフソンは、スピノザによって、フィロンの系譜、つまり神学に仕える哲学という理解は、終焉を迎えたとした。これに対して、フランケルは、スピノザの哲学とアリストテレスの伝統、とくにマイモニデスを比較して、両者の類似性を明確にしていく。スピノザには、延長を神の属性とみとめるラディカルな概念があったが、これを除けば、アリストテレスの神の概念とそれほど相違しない。これがフランケルの主張である。


 興味深い議論ではあるが、問題もある。ウォルフソンが理解したフィロンの系譜とは、神学に仕える哲学というものであった。この論文でフランケルが提示するマイモニデスの神は、あくまでラディカルなアリストテレス主義の系譜のなかで理解できるものである。つまり、啓示との整合性を必要としない、自然主義的な、または、アフロディシアスのアレクサンドロスらの流れを汲んだものである。


 スピノザの神概念の意義を明らかにするアプローチとしては、フランケルのものは不十分である。むしろ、マイモニデスとスピノザの思想の直接的な比較ではなく、スピノザを当時の神学思想的な文脈、とくにカルヴァン派やオランダ・デカルト主義との論争のなかにおき、自然法則や啓示概念といった側面から分析することが必要ではないだろうか。ウォルフソンもアプローチとしては、フランケルのものに近いが、結論のみを言えば、より的確であろう。


補遺
ちなみに、ウォルフソンの古典的傑作『スピノザの哲学』はインターネット・アーカイブからダウンロード可能。リンクはこちら

スピノザとスコラ学

Massimilano Savini, “L’Horizon Problematique du Concept d’ens reale dans les Pensees metaphysique de Spinoza” in Spinoza et ses scolastiques: Retour aux sources et nouveaux enjeux, Frederic Manzini, ed. (Paris: PUPS, 2011), 99-113.

サヴィーニはスピノザの著作のなかで発展させられる「実在の有」(ens reale)という概念を、スコラ学とデカルト主義の背景と照らし合わせながら明らかにしていく。デカルトの哲学を受容したヘーレボールトは、事物の個体化の問題に直面していた。パルメニデスやメリッソスらが提起した一元論の問題が、アリストテレスの形相質料論を放棄した後に再度浮上してくるのである。この問題に対処するためにヘーレボールトは、ブルゲルスダイクが発案したmedium negationisという有と無の間にある様態を実質的に実体から分けて考察するために使用する。同様にクラウベルクは「思惟しうるもの」(ens cogitabile)という概念を使用することによって、有と無の間に存在するものを形而上学的に保証する。デカルトの哲学を整合性のある形而上学のシステムに構築しようとしたこれらの試みに対して、スピノザは、理性の有や、存在と無の間にあるとされるあらゆる有を否定する。さらにデカルトの属性を様態として理解することによって、事物の差異を様態的な差異に還元する。これによって、唯一の実体に対して複数の様態が存在することになる。しかしこの解決法の問題は、永遠と持続(duratio)という差異をもつはずの神と他の一切のものとの関係が不明瞭になることである。『形而上学的思想』では、実在的有(ens reale)の明確な定義は行われていない。しかし『エチカ』では、実在の有は神の永遠の相のもと(sub specie aeternitatis)におかれ、存在と非存在の差異が明確化されることになる。


Spinoza et les scolastiques

Spinoza et les scolastiques

謹賀新年

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年は三月に出版された『知のミクロコスモス』(ヒライ・小澤編、中央公論新社)を始めとして、いくつかの出版や発表、講演を行う機会に恵まれました。なかでも十一月に上智大学の中世思想研究所主催のシンポジウム「中世における悪の諸相」での講演は、多くの人との素晴らしい出会いを与えてくれたものとして印象に残っています。

 本務校の東京基督教大学では、二年目ということもあり、より自由に学生と向きあうことができました。特に一年生の基礎演習の講義は、人文学の基礎ともいえる批判的に読み、書く技術を教える喜びを深く感じました。また非常勤先の立教大学では、大学院のゼミでジジェクやアガンベンなどのテクストを通して、現代におけるキリスト教の思想の可能性について共に考えることが出来ました。

 今年は単著の完成を目指したいと思います。また、研究会や発表を通して交流する仲間たちと共に、これまで以上に現代において必要である人文学の発展に努めていきます。
本年もよろしくお願いいたします。

加藤喜之